新しく青道のコーチとしてやって来た落合さん。
彼はこれまでいくつもの高校を甲子園へと導いてきた優れた指導者らしく、その中には俺でも知っている有名な高校の名前もあった。
そして今回、近年勤めていた高校との契約を満了したタイミングで、落合さんの噂を聞きつけたウチの校長から直接ヘッドハンティングされたようだ。
「へぇ、落合さんって凄い人なんですね。そんな人がコーチとして指導してくれるのは嬉しいっす。これからよろしくお願いします、落合さん」
「ああ、もちろんだ。一緒に甲子園へ行こうじゃないか。君がいれば全国制覇だって夢じゃない」
「ははは、頑張りますよ」
言われなくても全国制覇は高校三年間のうちに何度かするつもりだ。
むしろ俺にとってそこは通過点でしかなく、もっと先を見据えているからこんな所で躓いている暇は無いんだよね。
ま、現在進行形で躓いているやつが何言ってんだって感じだろうけど。
とはいえ、優秀なコーチが来てくれるっていうのはかなり有り難いことだ。
是非とも俺のピッチングについてアドバイスをして欲しい。
ただ、落合さんみたいな実績がある人がよくウチのコーチとして来てくれたよな。
昔の青道ならまだわかる。
甲子園の常連校だったから、そんな高校なら監督じゃなくコーチとしてでも招かれればそれに応じるだろう。
でも今のウチは毎年惜しいところまでは行っても、ここ何年か甲子園の土を踏むことなく予選で敗退しているようなチームだ。
果たしてそんな高校に、落合さんのような人がコーチとしてやって来るものなのだろうか。
監督としてなら普通にあり得る話なんだけどね。
そう、監督としてなら。
「うーん、でもそんな凄い人がコーチとして来るなんて、まるで監督が代わっちゃうみたいですね」
ピクッ、と。
この部屋の時間が一瞬だけ止まったような感じがした。
そして、監督の横に座っている太田部長はわかりやすいくらいに動揺している。
「……はっはっは! そ、そんなわけないだろう。南雲でも冗談を言う時があるんだな?」
「そうですよねー。ははは」
「は、ははは!」
誤魔化すように笑う太田部長。
良い人なんだけど、この人は隠し事ができないなぁ。
これじゃあ誰が見ても一目瞭然だよ。
でもそっか。
もしかすると監督が代わってしまう可能性があるみたいだね。
本音を言えば片岡監督と一緒に甲子園へ行きたいと思っているけど、それに関しては大人の事情が色々とあるんだろうから、俺が下手に何かを言っても意味が無い。
どうせ聞いても答えてはくれないと思うし。
「まぁとりあえず、この話は一旦置いておくとして……俺を呼んだのは落合さんを紹介する為ですか?」
このままでは話がまったく進まないので、これ以上は深く聞くまい。
「いや、それ以外に他にもいくつか話しておくことがある。この夏休み期間中にウチはいくつかの高校と練習試合をすることになっているんだが、二週間後に予定されている試合でお前を登板させるつもりだ」
ふむ、二週間後か。
……二週間後?
「え、それは嬉しいですけど、今の俺はピッチングの練習すらしてませんよ? 二週間後に試合があるなら、今日からでも練習して調整しておきたいんですけど」
「ああ、今日からピッチングを許可する」
「マジっすか!?」
「無論、違和感があればすぐに中断させるし、しばらくは落合コーチにお前を見てもらうつもりだ」
「ありがとうございます!」
よっしゃ!
これでやっと本格的な練習を再開できる。
しかも、落合さんという凄腕のコーチが傍でアドバイスをしてくれるんだ。
環境としてはこれ以上ないくらいに恵まれていると言えるだろう。
俺が今日からピッチングができると聞いてウキウキしていると、隣にいる落合さんはあご髭に触れながら口を開いた。
「良いんですか、片岡さん。チームのエースを私に託すような真似をしてしまっても。南雲君をわたし好みに変えてしまうかもしれませんよ?」
「構いません。どうぞよろしくお願いします」
おっさんに言われていると思うと寒気がするほど気色悪いが、この際多少は我慢しておこう。
それに、誰が指導しようとも俺は俺だ。
片岡監督の色にも染まるつもりはないし、落合コーチの色にだってもちろん染まるつもりはない。
むしろいずれは、青道の方を俺色に染め上げてやるくらいの気持ちでいるくらいだ。
だからこそ自分の野球は絶対に捨てないよ。
もちろんアドバイスとかは素直に受け入れるつもりだけどね。
「それじゃあ早速、御幸を捕まえて屋内練習場で練習を始めても良いですか?」
正直待ちきれない。
俺は今すぐにでも思いっきりボールを投げたいくらいだ。
「わたしは構いませんよ。今日は顔合わせだけのつもりでしたが、本人がここまでやる気ならわたしもそれに付き合います」
「ではお願いします。ただ、南雲は怪我明けなので無理だけはさせないように、くれぐれも注意してください」
「はい、わかりました」
とんとん拍子に話が進み、今からピッチング練習が出来るようになった。
そうと決まればゆっくりしている暇はない。
今すぐ御幸を見つけて準備させないとな!
俺は立ち上がって早々に部屋から出ていこうとする。
「あ、最後に監督に一つだけ」
ふと、足を止めて振り返った。
「生意気かもしれないですけど――途中で逃げ出さないでくださいね、監督」
「……ッ!」
部屋を出る直前に言い放ったその言葉で、片岡監督は珍しく動揺しているみたいだ。
そして俺は、落合さんと一緒に屋内練習場へと向かうのだった。