まだ朝日が昇っておらず、街が暗闇に染まっている時間帯。
竜王国に活気が戻ったと言っても、流石にこうも夜が深まれば皆が眠りにつき、街は静寂に包まれている。
そんな中、ひとつの影が人間離れした身体能力を駆使し、宿の窓から室内へ侵入しようとしていた。
「ご主人様ー、ちゃんとアイツらの死体は回収してきたよー」
その侵入者は暗殺者のように音も立てずに部屋に入ると、気軽な調子で中にいた人物に話しかけた。
「おう、ご苦労さん。この国のアダマンタイト級冒険者はどうだった? お前が満足できるくらいには強かったか?」
オロチがそう尋ねると、クレマンティーヌは相好を崩してニコニコと朗らかな表情を浮かべる。
「んー、アレだったらまだブレインのクソ野郎の方が強いかな。でも、4人もいたから十分楽しめたよー。私のわがままを聞いてくれてありがとう」
「それは良かった。セラブレイト以外のメンバーは知らないが、奴はアンデットの素体としてはそこそこ優秀な身体だったからな。きっとアインズさんも喜ぶと思うぞ」
オロチは暇つぶしに読んでいた本をパタンと閉じ、期待した眼差しを向けるクレマンティーヌの頭を撫でる。
すると、『へへへ……』と嬉しそうに声を漏らした。
その笑顔は誰が見ても純情な少女にしか見えず、とてもじゃないがつい数刻前まで殺し合いを演じていた人物とは思えない。
クレマンティーヌが戦闘時に浮かべる嗜虐的な笑みと、オロチに撫でられている時の幸せそうな笑みはまるで違うのだ。
ただ、そのどちらが彼女の本性なのか、それはクレマンティーヌ自身にしか分からないだろう。
いや、もしかするとクレマンティーヌでさえ分かっていないのかもしれない。
そして、クレマンティーヌはひとしきり撫でられて満足したらしく、オロチが先ほどまで読んでいた本に視線を向ける。
「さっきまで何を読んでたの?」
「ん? ああ、これか。これはかつての仲間が書いた戦術本だ。この世界の人間のレベルが低すぎてあまり参考にならないものも多いが、それでもいくつかは使えそうな戦術が書かれている。……ただ、俺はたぶん使う必要が無いだろうな」
「どうしてー?」
「俺の力は驕り無しに強い。それこそ、単騎で一軍を相手にできるだろう。だから味方を指揮するよりも、敵軍に突っ込んでいった方が戦果を上げやすいんだよ。下手な小細工なんか使わずに、な」
オロチとて、戦術や戦略の重要性はしっかりと理解している。
しかし、今のオロチの力はこの世界では異端も異端。
例えるなら犬や猫が入った檻の中にドラゴンを放り込んだようなもの。
付け焼刃の技術など意味はなく、また必要もない。
(ナザリックには参謀のデミウルゴスもいるしな。それと、最近成長しているコキュートスも。いやはや、ナザリックの将来は安泰だよ)
元々ナザリックの参謀として作成されたデミウルゴスは、それこそ人間など足元にも及ばないほどの知能を有している。
さらに戦術などにも理解があり、指揮官もこなせる優れた配下だ。
もしも転移後のナザリックにデミウルゴスという存在がいなければ、オロチはこうも自由に動くことはできなかっただろう。
そしてリザードマンの一件で目覚ましい成長を遂げたコキュートスも、今後の活躍にかなり期待が持てる。
ナザリックの未来が明るいと思えば、自然とオロチの顔にも笑みが浮かぶというものだ。
「フフッ、ご主人様のそういう顔、私だぁいすき」
「それは嬉しいな。俺もお前の笑顔は好きだぞ。邪悪な方も含めて」
「……やっぱりご主人様は変わってるね。フフフ、明日から私たちはどうするの? この国に来た目的は達成したけど」
そう言ってクレマンティーヌは甘えるようにオロチにしだれかかった。
「さっき王宮から呼び出されてな。今後は何回か顔見せとして社交界に出席しないといけないらしいが、それでもしばらくは何もする事はない。だから予定通り冒険者稼業を続けるつもりだ」
「ふーん、その顔だともう行き先も決まってそうだねー」
「ああ、決まっているぞ。行き先は――バハルス帝国だ」
◆◆◆
バハルス帝国は『鮮血帝』と呼ばれるジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが治めている国家だ。
その才覚は歴代皇帝の中でも最も優れた皇帝と言われており、周辺国家はもちろん、過去に貴族を大量粛清した為にバハルス帝国内の貴族にまで恐れられている。
ただその反面、国民からの人気は凄まじい。
たとえ平民であっても能力があれば取り立てるというジルクニフの政策が、皇帝自身の容姿やカリスマも相まって爆発的な人気を生み出したのである。
「竜王国のビーストマンについてですが、どうやらとある冒険者チームによって壊滅させられたそうです」
「――なに?」
皇帝――ジルクニフは濃い紫色の瞳を細め、報告書を読み上げていた部下に視線を向ける。
その瞳からは深い知性が見え隠れしており、何気ない仕草一つでも支配者としてのオーラを周囲に感じさせた。
「その冒険者チームの名は、『月華』。最近リ・エスティーゼ王国で結成したばかりの冒険者チームですが、現在までに打ち立てている功績は絶大です。ビーストマンの国を数日で壊滅させたという話も、どうやら真実のようですね」
「……にわかには信じられない話だな。ビーストマンの知能は獣に毛が生えた程度とはいえ、戦闘能力自体は人間よりも遥かに上だろう。それをたった数人の冒険者で壊滅? そいつらはおとぎ話の英雄か何かか?」
突如として現れた謎の実力者。
バハルス帝国の皇帝として、これほど頭の痛い問題も珍しい。
これが帝国内で生まれた冒険者であれば何ら問題は無かったのだが、リ・エスティーゼ王国とは毎年のように争っているので完全に敵国だ。
そんな敵国で生まれた『月華』がもし敵に回れば……そう考えてしまえば、ジルクニフが頭を抱えてしまうのも無理はない。
なにせ相手はビーストマンの国を滅ぼした冒険者チームなのだ。
下手をすれば、ろくな抵抗もできずに敗れてしまう可能性もあった。
「お前たち四騎士であれば、その冒険者チームを抑えられるか?」
ジルクニフは側に控えている帝国最強の騎士たちに問うた。
しかし、その騎士たちの表情は暗い。
返答せずとも、それが全てを物語っている。
「……俺たちが四人で掛かれば足止めくらいはできるかもしれねぇがよ、できれば敵対するのは止めて欲しいところだぜ」
そうか、と短く言い放ち、ジルクニフは再び報告してきた部下に視線を向けた。
「それで、その月華とか言うチームのリーダーは誰だ?」
「『月華の英雄』オロチ。それがその冒険者の名前です」
「オロチ、か……できればその英雄殿とは仲良くしたいものだな」
ジルクニフの口からそんな言葉が溢れる。
皇帝ジルクニフにとって、弱々しい言葉を発したのはこれが初めてのことだった。