オロチが今抱いている感情は、怒り。
自分にとって命よりも大切なナザリックを荒らそうと企む者がいる、そんな戯言を聞いてしまったのだ。
今すぐにでも依頼主だというフェメールなる貴族を見つけ出し、その者を嬲り殺したい衝動に駆られてしまうのも無理はない。
その怒りは決して表面上には出していなかったが、オロチのことをよく知る者が見れば、今の彼がかなり不機嫌なことは一目瞭然である。
出会ってからの日数はそれほど多くないクレマンティーヌであっても、明らかにいつもとは違うというのが見て取れた。
「ご、ご主人様……その、大丈夫?」
「あぁ、何も問題はない。ナーベラルはもう宿に戻っているみたいだから、俺たちも早く合流しよう」
「う、うん」
クレマンティーヌはたとえオロチがどれだけ残虐な性格をしていようとも、その全てを受け入れるつもりであった。
だが、今のオロチには近づきたくても近づけない。
彼女が持っている生物として生存本能が悲鳴を上げてしまうのだ。
――殺される、と。
そしてそんな状態のまま、オロチは帝都での拠点となる宿屋に到着した。
この帝都の中でも一際質の良い宿で、もはや宿というよりもホテルに近いかもしれない。
「お帰りなさいませ、オロチ様」
冒険者用の格好からメイド姿に着替えたナーベラルに出迎えられる。
「ああ、ただいま」
いつも通りの表情、いつも通りの声……だが、今のオロチがいつも通りの彼ではないことは彼女――ナーベラル・ガンマには確定的に明らかだった。
オロチの後ろを見てみれば、普段は不快になるくらいベタベタしているクレマンティーヌが若干距離を取っている。
「……どうかされましたか?」
「この国の害虫共がナザリックを狙っているらしい」
「――っ」
その瞬間、ナーベラルの身体から魔力が漏れ出し、それが彼女の感情を表しているかのように周囲に微量の電撃が発生した。
微量とはいえ、それはユグドラシルのNPCにとっての微量だ。
触れれば黒焦げになるとまではいかないが、耐久力の低い一般人であれば感電死しかねない威力はあるだろう。
「お命じ下さればこのナーベラル、即座にそのゴミ虫共を排除致します」
ナーベラルの瞳には強い意志が感じられた。
それこそ、自分の命を犠牲にしてもその相手を消滅させると言わんばかりだ。
もしもオロチが命令すれば、本当に自分の命を投げ打ってでもそれを実行するだろう。
そんな激昂するナーベラルを見たオロチは、ようやく冷静になれた。
「落ち着け……いや、落ち着くのは俺の方か。まあとにかく俺は頭が冷えたから、お前も少し冷静になれ」
そう言ってオロチは、ナーベラルとクレマンティーヌの頭にポンと手を置いた。
そしてすぐに自らが信頼する死の支配者に連絡を取る。
「どうやら情報通りみたいです。ナザリックの位置がバハルス帝国の貴族に漏れています」
『――そうですか。このナザリックに土足で踏み込もうなんて、本当に忌々しいものですね』
念話越しでも怒気が感じられるほど、アインズの言葉からは怒りが伝わってきた。
アインズにとってナザリックは一種の聖域なのだ。
それが欲望のために踏み荒らされるなどあってはならない。
そしてそれは、オロチも同様である。
「アインズさん、最悪バハルス帝国と戦争になるかもしれません。その場合――」
◆◆◆
帝都アーウィンタールに悠然と佇む皇城には、皇帝直属の近衛兵や帝国最強の四騎士が控えており、ジルクニフが即位して以来は侵入者を生かして帰したことはない。
どれだけ優秀な暗殺者を送り込まれようと、どれだけ強い戦士を送り込まれようとも、その全てを彼の騎士たちは防いでいるのだ。
漆黒聖典を有するスレイン法国には及ばないまでも、それに次ぐだけの戦力をバハルス帝国は保持していた。
そして帝国の皇帝であるジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは今、眠い目を擦りながらひたすらに書類にサインを繰り返すという作業をしている。
皇帝としての職務は派手なものばかりではない。
むしろこういった地道な仕事の方が多く、精神をすり減らしていく毎日だ。
「失礼するぞ」
その時、そんな不躾な声がジルクニフの耳に届いた。
「……貴様は誰だ? 護衛の兵はどうした?」
皇帝ジルクニフは、苛立ちを込めた視線を侵入者へ向ける。
その侵入者は10代中盤くらいの子供であり、恐ろしいほどに整った顔立ちをしていた。
自分の容姿にはそこそこの自信があったジルクニフだったが、そんな彼から見てもまるで作り物のような造形だ。
どうせ貴族の馬鹿息子というところだろう。
なまじ顔が良いから存分に甘やかされて育ち、だからこそ自分が偉いと勘違いしてこういう愚かな真似をする。
非常に不愉快だ。
「殺した」
だが、そんな言葉が侵入者の口から飛び出してくると、ジルクニフの警戒が一気に引き上げられる。
「……あ?」
「コイツはアンタのお友達だろう?」
オロチはサッカーボール程度の大きさがある何かをストレージから取り出し、ジルクニフの方へと雑に放り投げた。
それがコロコロと転がり、ちょうど彼の足元に止まる。
「――ッ」
それを視認した瞬間、ジルクニフはその整った顔を歪めて息を飲んだ。
目の前の少年がゴミのように放り投げたのは――人間の頭部だった。
それもただの一般人ではなく、バハルス帝国の貴族であるフェメールという伯爵位を持つ男。
それが首だけになり、尚且つ苦悶に満ちた表情で朽ち果てていれば、いくら鮮血帝と呼ばれるジルクニフであっても怯むのも無理はない。
「こ、この男は我がバハルス帝国で貴族をしている男のはずだ。君が殺したのか?」
「ああ、その通りだ」
「……何故だ?」
「何故、か。このフェメールという男は、俺の家を荒らす計画を立てていた。実際、何人かに侵入されているしな。これはその報復と――お前に対する警告だ」
侵入者――オロチは威圧的な態度でそう言った。
微量の魔力を放出させて、僅かにだが殺気もジルクニフに向けている。
生物として遥かに格上の存在であるオロチからそんなものを向けられれば、普通であればガクガクと身体を震わせて恐怖してもおかしくはない。
「……何かの間違いではないか? 彼は貴族だ。一般人の家を襲うなどという、恥知らずな真似をするとは思えない」
しかし、ジルクニフはオロチの威圧に若干気圧されながらも、それでも皇帝に相応しい堂々とした態度を崩さなかった。
生まれながらの支配者である彼は、恐怖を自らの強い意志で跳ね除けたのである。
「アゼルリシア山脈の南、トブの大森林の中に巨大な墳墓があることを知っているか?」
「墳墓? あぁ、確かフェメールがコソコソと遺跡の発掘をしているという報告を聞いている。もしかしてそこの事を言っているのか?」
「そうだ。その墳墓はな、俺の我が家なんだよ。周辺をウロチョロされるだけでも鬱陶しいし、土足で上り込むなど以ての外だ。それをこのフェメールは行った。〝我らが主人〟は大変お怒りである」
真紅の瞳がまっすぐにジルクニフを捉えて離さない。
ジルクニフはまるで心の奥底まで見抜かれているような不気味な感覚に陥り、そんな底が計り知れない紅い瞳に恐怖した。