突如として現れた破壊の化身とも呼ぶべき存在、帝国史上最大の危機、そして最高戦力の内ひとりの離反がトドメになった。
これら一つでも頭を悩ませる問題だというのに、僅かな時間でそれらが一気に押し寄せてきたジルクニフは呆然と立ち尽くしている。
「今日のところはこれで帰るとしよう。今後もよろしくな、ジルクニフ殿?」
「……あぁ、こちらこそ」
もはや今のジルクニフには歴代最高の皇帝と呼ばれ、『鮮血帝』と恐れられた支配者の姿は見る影もない。
舌戦に於いて自分の持つ武器がここまで通用しなかった相手は初めてであり、オロチが持つ圧倒的な武力によって一方的にやり込められてしまった。
そもそも勝負の土俵にさえ上がれておらず、なんとも言えない無力感がジルクニフの胸中に広がっていく。
今度こそ部屋を出て行こうとしているオロチの背中は、あまりにも遠い。
「では城門までお送り致します、オロチ様」
「じゃあ頼む。廊下でばったり兵士にあってしまえば、また処理しなければならなくなってしまうだろうからな。友人であるジルクニフ殿の部下を、これ以上減らしてしまうのは流石に忍びない」
「はは……お気遣い感謝するよ」
どこまで追い詰めれば気がすむのかと、ジルクニフは珍しく弱音を吐きたい気分になった。
そんな憔悴したジルクニフを一瞥し、その後は一度も振り返ることもなくオロチは立ち去っていく。
その後ろには、まるで自分は忠義の配下であると言わんばかりなかつての同胞であるレイナースを従えて。
一人だけ部屋に取り残されたジルクニフは、ドカっと椅子に座り込んで考える。
はたして、帝国の未来のためには何をすることが正解なのだろうかと。
オロチは『我が主人』と言っていた。
ならばオロチよりも上位に君臨する王、もしくは支配者がいるはずだ。
つまり背後にはそれなりに纏まった勢力が存在している可能性が非常に高い。
そして、その勢力と帝国は既に敵対に近い関係に陥っている。
「相手は少数で国を落としてしまうような連中だ。そんな相手と敵対するなどあり得ないし、そもそも帝国の戦力で勝てるのかさえ怪しいところだな……」
すっかり冷え切ってしまった紅茶で喉を潤し、全てを投げ出したくなる気持ちをグッと我慢する。
人外の力を秘めた者が敵対するなど、国を治める立場からすれば悪夢でしかない。
よしんば勝てたとしても帝国の国力低下は免れず、そうなれば他国……主に現在も戦争中であるリ・エスティーゼ王国から本格的に攻められてしまう。
弱っているところを見せれば、それだけで要らぬ横槍が入ってくるだろう。
まさに、八方塞がりとは今の状況のことである。
「クソッ、あそこはただの遺跡だったはずだろう!? それが何故あんなバケモノが飛び出してくるんだ!」
遺跡を調査しようとした冒険者やワーカーが返り討ちに合うことは、決して珍しくない。
時には派遣した者達が全滅してしまうことだってある。
そういったリスクも含めた上で、ジルクニフはその全てをフェメールに背負わせようとしていた。
しかしどうだ?
切り捨てるはずだったフェメールは既に殺され、それどころか帝国の首元に刃物を突き付けられる始末。
これほどまずい状況に陥ったのは、ジルクニフが皇帝となって初めてのことである。
「オロチをどうにかして寝返らせることができないだろうか? あの男さえ味方に付けてしまえば、奴が言う主人とやらとも戦えるかもしれん」
ジルクニフはふと思いついた考えを口にしてみるが、それは思いのほか悪くない考えだった。
武芸者ではないジルクニフにはオロチの実力を正確に測ることはできなかったが、それでもオロチが規格外の強さを持っていることは理解できる。
ビーストマンを殲滅したという信じ難い話も、オロチであれば信じられるほどであった。
だがもし……もしもそんな人物が味方となれば、帝国にとってこれ以上ないほどに心強い。
災い転じて福となす、そんな諺がピッタリと当てはまるような状況となり、帝国にとって今よりも遥かに明るい未来が見えてくるだろう。
「とにかく今はレイナース以外の四騎士、そしてフールーダに相談しなければならんな」
思い浮かべるのは自身の部下であり、帝国に於ける最高戦力の者たちの顔。
つい先ほどその一端であるレイナースが実質的に離反したが、まだまだ十分すぎるほど強力な戦力を帝国は保有している。
その事実だけが、この絶望的な状況の中で唯一の希望であった。
◆◆◆
「それでは、私は以前と変わらず四騎士として振る舞えばよろしいのですか?」
「ああ、その通りだ。特別なことは何もしなくていい。今の役職から外されるまでは、これまでと変わらずに行動しろ。……いや、むしろ今までよりも精力的に仕事をこなしてくれ」
「御身の御心のままに」
そう言って金色の髪を靡かせる女騎士――レイナース・ロックブルズはその場で臣下の礼を取った。
その姿は高潔な女騎士そのものであり、絵画のような美しさと優雅さを兼ね備えている。
所作のひとつを取っても自然体で完璧な印象をオロチは受けた。
バハルス帝国の四騎士とまで呼ばれる地位に就いていたレイナースだが、そんな彼女がそここまで急に心変わりしたのには当然理由がある。
それは――
(まさかあの程度の呪いを解いてやっただけで主君を裏切るとは思わなかった。そこそこ強いし、思わぬ拾い物だったな)
レイナースは自身に掛けられた呪いに長い間苦しんでいた。
彼女がジルクニフの元で騎士をやっていたのも、全てはその呪われている顔の半分を治療する為である。
しかし今日、その忌まわしき呪いをオロチが解いたのだ。
それはレイナースにとって、今まで仕えてきたジルクニフをあっさり切り捨てるだけの理由には十分だった。
多少の恩義を感じていない訳ではなかったが、新たな主人であるオロチに裏切れと言われれば即裏切れる程度のものである。
ただ、オロチはそれなりに力がありそうなレイナースを寝返らせれば、ある程度の嫌がらせになるだろうと思っての行動だった。
親切心など一切なく、彼女がここまで感謝したのは嬉しい誤算である。
「我が身を蝕んでいた忌まわしき呪い、それを解いてくださったオロチ様に仕えることは当然です。そもそも私とジルクニフの関係はあくまで利用しあうだけのもの。こうして真に仕えるべきお方が現れた今、奴と袂を別つことは至極自然なことですよ。元々そういう契約でしたし」
「そうか、だが俺は裏切り者は決して許さん。それは肝に銘じておけよ?」
「もちろんです、我が主」
しかし、オロチは基本的にナザリック以外の者たちを信用していない。
「ならこれを首に嵌めろ」
そう言ってオロチが差し出したのは、『隷属の首輪』。
クレマンティーヌも未だに身につけているその首輪は、逆らうことを一切禁止される凶悪なマジックアイテムである。
最低限の判断力があれば、絶対に自分からは付けることが無いであろう代物だ。
だが、レイナースは何の躊躇いもなくそれを首に付けた。
「有り難く頂戴いたします」
「……お前、そいつの効果を知っているのか?」
「支配系のマジックアイテムなのでしょう? 詳しい効果は分かりませんが、私が貴方様を裏切ることはありません。であれば、主からの贈り物を拒む理由はひとつも無いですよ」
そんな返答を聞き、この世界の強い女はどこか狂っているのだと、オロチは理解した。