バハルス帝国はリ・エスティーゼ王国と長年争いを続けてきた。
ちょっとした規模の戦闘から、両軍がぶつかり合う戦争まで様々な形でぶつかり合ってきた歴史がある。
小競り合い程度ならばよく頻発しており、両国民にとってはもはや恒例行事となっていたほどだ。
しかし、最近ではそんな争いごとはオロチの影響によってただの一度も起こってはおらず、国境付近の街は平和なものであった。
もっとも、それと反比例するように皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの疲労は溜まっていく一方であったのだが。
「ふぅ……最近は色々と疲れることが多いな。四騎士の一人である『重爆』の離反や王国への対応、それからオロチへの配慮にも気をやらないといけない。おまけに貴族たちにも目を光らせておかなければならないときた。正直、今すぐにでも皇帝を降りたい気持ちで一杯だよ」
ジルクニフはもう何度目かさえ分からないため息を吐いた。
彼の悩みごとは尽きることを知らない。
あらゆる問題を解決しているが、次の日になれば新たな問題が彼の元へと舞い込んでくるのだ。
まるで終わりがない迷路に迷い込んだ気分になる。
「……ご冗談を。陛下が皇帝を降りれば、この国は本当に終わってしまいます」
あまりにもジルクニフの言葉が真実味を帯びていたからなのか、彼の秘書でもある側近の男が思わず口を開いた。
だがそんな声をかけられたところで抱えている悩みが解決することはなく、表情にもどこか陰が感じられる。
「最近ふと思うんだ。オロチのさじ加減次第でこの国の存亡が決まるのなら、私がこうして仕事をする意味など無いんじゃないかとな」
「そんなことは……」
無いとは言い切れない。
それは何よりも帝国の現状が物語っているからだ。
オロチに敵対すれば自分が殺されるどころか、気分を害しただけでも帝国を滅ぼされてしまいそうな気がする。
するとジルクニフは、自分の部下が絶望したような表情を浮かべていたのを見て、何を八つ当たりしているのだと自身に嫌悪感を抱いた。
「――フッ、安心しろ。冗談だ」
奇しくも彼の現状は執務室で書類に埋もれていたドラウディロンと酷似しているが、決定的な違いは頼るべき者がいないという点だろう。
良くも悪くもジルクニフは有能だ。
今までは自分自身の才覚一つで立ち塞がる障害を退けてきた。
もちろん有能な部下は何人かいるが、それはあくまでも部下であって頼るべき存在とは程遠いものである。
「それで、お前が持っているそれは一体どんな面倒ごとだ?」
「これはブリストンの領主、ジョシュア・ロールソン伯爵に関する調査報告書です。数日前に陛下が調べさせたものがたった今上がってきました」
「ロールソン伯爵……あぁ、あの豚か。まったく面倒なことをしてくれる。私に手間を取らせるくらいなら、勝手に死んでくれればいいのにな。本当にこの国には碌な貴族がいない」
バハルス帝国は皇帝ジルクニフが無用な諍いが起こすなと厳命してある。
違反者は問答無用で死罪。
すでに何人かの兵士がそれを破って処理されている。
そしてその中には、率先して戦争を起こそうとしていた貴族も漏れなく処刑されていた。
「ジョシュア・ロールソンは処分しておいてくれ。四騎士を使ってもいいから、出来るだけ早急に片付けろ」
「四騎士をですか?」
「ブリストンは竜王国に近い。そして竜王国には……そこまで言えば分かるだろう?」
「オロチ殿、ですね。しかしいくら阿呆とはいえ、流石にあのお方にはちょっかいなど出さないのではないでしょうか。オロチ殿の力は今や誰でも知っていますし」
今やオロチの強さは大陸中に広がっているほどだ。
曰く、一国の軍隊を一太刀で壊滅させることができるらしい。
そんな馬鹿な、と鼻で笑いたいところではあるが、実際にオロチならば出来そうだと思ってしまう。
本当にタチが悪い、ジルクニフはそう自嘲的な笑み浮かべた。
「愚か者の行動は時に予想できないことをやらかす。何なら、もうすでに手を出しているかもしれんぞ?」
「……すぐに四騎士の誰かを動かします」
「ああ、そうしてくれ。ただレイナースは城から動かすな。あいつにはずっと兵士たちの訓練をさせておけばいい」
「御意」
帝国が誇る最強の四騎士、その一人であるレイナースは配下であって配下ではない。
彼女は自身に掛けられていた呪いをオロチに解呪してもらうことで、既に寝返っているからだ。
形式上ではまだ帝国に所属しているが、いつ裏切るのかわからないため、重要な作戦には参加させることができなかった。
いっそ帝国から出て行って欲しいくらいなのだが、他ならぬオロチにそれは止められている。
なので兵の教練という名目で縛り付けておく他なかった。
(味方さえ信じられないとは、こうも辛いものなのだな……。本当にオロチ側についた方が良い気がしてくるよ)
ジルクニフが大きくため息を吐くと、そのすぐ後に部屋をノックする音が聞こえてきた。
「入れ」
「失礼します、陛下」
「……何の用だレイナース。お前には兵の訓練をさせていたはずだが?」
姿を見せたのは長い金髪を靡かせている女騎士。
ちょうど先ほど名前が上がっていたレイナース・ロックブルズだった。
彼女を視界に入れると、自然にジルクニフの顔と口調が厳しいものになる。
なんせこの女はもはや敵と同等……いや、自身の懐に入っていることを考えればそれ以上に厄介な存在なのだ。
できれば遠ざけておきたいと思うのが普通だろう。
むしろ頭痛の種である彼女を、今すぐにでも部屋から叩き出したいと思っていた。
しかし、そんなジルクニフの態度を気にした様子もなく、レイナースは凛々しい表情のままで入室してくる。
そして――。
「オロチ様が面会を求めています」
レイナースの口から出たその言葉を脳が理解した瞬間、ジルクニフは目の前が真っ暗になった気がした。