カルネ村に住むエンリ・エモットとネム・エモットの姉妹。
その二人にうち姉であるエンリ・エモットは、村人達からとある話を持ちかけられていた。
「なぁエンリ、そろそろあの話を受けてくれないか?」
「……村長さん、前にも言いましたけど私には無理ですって。ただの村娘が村長になるなんて、そんなの聞いたことがありません」
エンリがカルネ村の村長に就任する、それはカルネ村に住む人々の総意だった。
本来であればまだ子供と言っても良い年齢のエンリにそんな話は上がらないのだが、彼女は非常に特殊な立場に立たされている。
何故なら彼女はカルネ村を救った恩人であるオロチに、貴重なマジックアイテムを与えられるほど気に入られているからだ。
しかもそのアイテムというのが、素人目から見ても明らかに価値があると分かるようなアイテムだった。
もっとも、オロチ自身にそんなつもりは一切ない。
エンリに渡したマジックアイテムは元々大量に所持していたもので、オロチからするとそこまで価値のあるアイテムではないからだ。
だがオロチにそんなつもりは無くとも、彼がエンリの事を気に入っていると村人達が思っても不思議ではなかった。
この世界においてマジックアイテムとは非常に高価な品であり、見ず知らずの他人に与えるようなものではないのだから。
それこそ、オロチがエンリを愛人に欲していると思われても仕方がないほどだ。
実際に村長もオロチが望むならエンリを差し出すつもりでいる。
今オロチの不興を買えば、この村は近いうちに滅んでしまうのだから。
「この村の為にも、そして妹のネムの為にもよく考えてくれ」
カルネ村の村長は険しい顔でそれだけ言うと、エンリの元から去っていった。
残されたエンリはふぅ、とため息を吐く。
村長? そんなもの自分には無理だ。
ただの村娘でしかない小娘にとって、村人全員の命を背負うには重すぎる。
確かにこのカルネ村のことは大好きだし、自分に出来ることであれば協力したいと思う。
しかし、いくらなんでも村長として村人達を纏めるなど自分に出来る筈がない。
なにより、エンリにはどうしてもオロチが自分を気に入っているようには思えなかった。
彼や彼の周りにいる女性を見れば、自分程度ではまったく釣り合いが取れないことを嫌でも理解させられる。
まるで御伽噺の主人公のようなオロチと、そんな彼に付き従う美女たち。なるほど、それはさぞ絵になることだろう。
だがもし、そんな彼らの中に自分が入ればどうなるか。
(そんなの私が惨めになるだけじゃない……)
エンリが知っているだけでもオロチの側には二人の美女がいる。
その二人――シャルティアとルプスレギナと比べれば、自分程度では相手にならないとエンリは思っていた。
だが、村長が最後に言った『ネムの為にも』という言葉。
両親を失ったあの日に、なんとしても妹だけは守ると誓った心優しいエンリにとって、その言葉は彼女の心に鎖のように絡みつき、鉛のように重くのしかかるのだ。
「……お姉ちゃん大丈夫?」
すると、そんなエンリを心配するように家の奥から妹のネムがひょっこりと顔を出した。
両親が生きていた頃は天真爛漫といった元気一杯の子供だったが、今ではすっかり大人しい聞き分けの良い子供になっている。
それ自体は非常に助かることなのだが、エンリはそんな妹の姿をどこか寂しく思うのだ。
そしてふと考えてしまう、もし両親が生きていれば今よりもずっと笑顔だったのだろうと。
「全然大丈夫よ。村長さんと少し話していただけだから」
唯一残された家族である妹にだけは、自分の情けない姿を見せたくない。
そう思って鬱屈した気分を押し殺し、精一杯の笑顔をネムに向けるが、果たして今の自分はちゃんと笑えているだろうか?
一方、そんな姉の気持ちをどこまで理解しているのか分からないが、ネムは大好きな姉にニコリと笑った。
エンリがネムを守ると誓ったように、妹であるネムもエンリを支えると両親の墓標に誓っているのだ。
姉が色々抱え込んでいるのは見ていてすぐに分かる。
だからひとりで抱え込まず、自分に相談して欲しいとネムは思っていた。
「そっか。私もお姉ちゃんのお手伝いするから、困った事があればなんでも言ってね?」
「ネム……」
妹のその言葉に、エンリは今まで溜め込んできたものを抑えられなかった。
ある日突然両親を喪った悲しみ、これからは自分が妹を守っていかねばならないという責任感、そして村人達から受ける重圧。
そのどれもが、まだ十代の半ばでしかないエンリにとって、とてもじゃないが背負い切れるものではなかったのだ。
エンリの体が自然と動き始め、ネムをそっと抱きしめる。
妹の身長は自分が思っているよりもずっと大きくなっており、いつのまにか頼もしいと感じるようになるまで成長していた。
しかし、だからと言って妹に甘えてばかりはいられない。
この時に彼女は決意した。例え自分の全てを犠牲にする事になっても、たったひとりの家族を守り抜くことを。
エンリ・エモットはネム・エモットのお姉ちゃんなのだから。
――そんな彼女の決心に呼応するかのように、『百鬼夜行絵巻』から黒い瘴気が漏れ出した。
「え!? なにこれ……!」
オロチから受け取った後は御守りのようにいつも肌身離さず持ち歩いていたのだが、こんな現象が起こった事は一度もなかった。
フワフワと浮遊しながら独りでにエンリの元から離れていく巻物。瘴気を発している事もあり、かなり不気味に感じる光景だ。
エンリはそんな禍々しく黒い瘴気を出している巻物からすぐに距離を取り、自分の背後にネムを庇う。
頭ではすぐに逃げ出そうとしているのだが、体が言うことを聞かなかった。
まるであの禍々しい巻物に惹かれているように。
「お、お姉ちゃん? それに近づいて大丈夫なの?」
瘴気を放っている巻物に少しずつ近づいていく姉に、慌ててネムが声をかけた。
「……分からない。でも、なんだかオロチ様みたいな雰囲気を感じるの」
ネムにはエンリが言っている意味が理解できなかった。こんなにも怖いものがオロチと似ているなどあり得ないだろう。
だが自分の体は恐怖で竦み、近づいていくエンリを止める事ができない。
そしてエンリが手を伸ばし巻物に触れた瞬間――巻物が黒い炎に呑まれて消滅した。
「あぇ……?」
そんな間の抜けた声がエンリの口から漏れる。まさか自分が触れた瞬間に燃え出すなど夢にも思うまい。
しかし一瞬の静寂の後、エンリは自分の犯した過ちに気がついた。
(あれ? もしかしてせっかく頂いたマジックアイテムを無駄にしちゃった……? ど、どどどうしよう!?)
エンリはマジックアイテムを無駄使いしてしまったと思い、身体中からダラダラと汗が流れる。
マジックアイテムというのは非常に高価だ。それこそエンリのような村娘では一生かけても購入できないかもしれない。
そんな物を無駄にしてしまったと思えば、エンリのように絶望してしまうのも頷ける。
『いつまで間抜け面を晒しておるのだ。貴様は我の主なのだから、もっとシャキッとせんか』
そんな響くような声が、焦るエンリの耳に聞こえてきた。突然の第三者の声に驚いてすぐさまそちらに顔を向ける。
「……喋るカラス?」
エンリが呟いたように、そこには妙に風格を漂わせたカラスの姿があった。
普通のカラスと違う点を挙げるとすれば、野生の鳥とは思えないほど美しい翼を持っていること。そしてなにより足が二本ではなく、三本あるということだろう。
『カラスとは心外であるぞ、主殿。我が種族は神の御使い、八咫烏である。二度とカラスなどと間違えるでない』
目の前のカラス――八咫烏はそう言ってエンリの肩に止まるのだった。