「大丈夫か?」
そう言ってオロチは、目の前で椅子から転げ落ちた女性――ドラウディロンへ手を差し伸べた。
自分の声が原因で驚かせてしまったので、彼女に対しては多少の罪悪感を抱いている。
まさか少し声を掛けただけであれほど盛大に椅子から転げ落ちるとは思わなかったのだ。
そういう意味では、オロチもドラウディロンと同様に驚かされていた。
そして当の彼女は、その差し出された手をよく理解しないまま握り返す。
突然見知らぬ男……いや、少年が現れたことで混乱してしまい、正常な思考ができなくなっているのだ。
普段の彼女ならば、公の場以外で見知らぬ人物に手を差し出されても、決してその手を取ることはなかっただろう。
そのまま腕を引き上げられて一気に立たされた。
「……って、貴様はいったい誰だ!? 警備の者達はどうしたのだ!? こんな所で何をしている!?!?」
バッとオロチから距離を取り、口早に次々と疑問を口にする。
ようやくまともな思考が戻ってきたのだが、その瞬間に目の前にいるオロチについての疑問が溢れ出してきたのだった。
ビーストマンに押されていると言っても、自分の純粋無垢な子供の演技によって兵士達の士気は高く、未だこの城の警備は強固なものである。
……それこそあの変態――セラブレイトが忍び込んで来ても、自分が逃げ出せるくらいの警備にはしてあるつもりだった。
いくら手練の者であっても、決して容易に突破できるものではない。
しかし、ならこの少年はいったいどこから入ってきた?
そういった技能、もしくはタレントを所持している?
いや、そもそもこの状況はかなり不味いのではないか?
彼がもし暗殺者の類いならば、せいぜい一般人程度の力しかない自分では抗いようが無い。
大声で助けを呼ぼうにも、彼にその気があるなら確実にその前に殺されるだろう。
そんな考えがドラウディロンの頭をぐるぐる駆け回っていると、彼女とは対照的にオロチはのんびりとした声を上げた。
「……そう一度に何度も質問するなよ。じゃあまずは自己紹介でもするか? 俺の名前はオロチ。どうやらアダマンタイト級冒険者『月華』のリーダーをやっているみたいだ。よろしくな女王さん」
「アダマン、タイト級……オロチ……お主が、あの……」
ドラウディロンは目を見開いて驚愕した。
その名前には聞き覚えがあり、確かリ・エスティーゼ王国で誕生した新しいアダマンタイト級冒険者の名だ。
良くも悪くも多くの噂が広がっている冒険者で、しかし噂が真実ならば十分にこの状況――いずれビーストマンに滅ぼされるであろう状況を打破し得る力を持っているかもしれない。
もしもこの少年が本物であるのなら、この国の未来にも微かだが希望が見えてくるというものである。
「それで、アンタがこの竜王国の女王さんでいいんだよな?」
「あ、ああそうだ。いかにも私がドラウディロン・オーリウクルスだ」
オロチのことはまだ警戒していたが、殺す気ならばとっくに手を下されている筈。
ここまで何かされた様子が無いことを考えれば、何か別の目的があるのだろう。
そう思って女王として恥にならないように、できるだけ堂々とした声で返事を返した。
「竜王国の現女王は幼い少女とかいう噂はデマだったか」
「っ!」
しかし、その言葉によって自分の顔が凍りつく。
失敗した、それがドラウディロンの率直な感想だろう。
突然のことで忘れていたが、今は世界中の冒険者を文字通り自分を餌にして呼び込んでいるのだ。
もしもこの少年がロリコン……いや、彼の場合は歳下趣味であるなら大人の姿で会ったのは不味すぎる。
少なくとも、結果的に彼を騙してこの国に呼び込んだのは事実なのだから。
「まぁそんなことは別に良いんだが、それよりも――」
「え? いや、別に良いのか?」
思わずオロチの言葉を遮ってしまう。
彼女からすればオロチを騙していたことには変わりなく、この場で激高されても文句は言えない立場だ。
それをそんなことと言って片付けてしまうなど予想外にもほどがある。
今の竜王国にはみすみすアダマンタイト級冒険者を逃せるほど余裕などなく、それこそ頭を地面に擦り付けて許しを乞う、そういった覚悟もしていた。
故にオロチの態度には肩透かしを食らった気分になったのである。
「別に良いだろ。流石にリザードマンみたいな姿だったら笑いこける所だったけど、アンタみたいな美人ならガキンチョの姿よりも好かれるんじゃないか?」
「……お主がまともな者で良かったよ」
そう言って乾いた笑みを浮かべるドラウディロン。
まさか自分がリザードマンという噂まで流れていたとは思わなかったが、それ以上にオロチが正常な感性を持っていることに安堵する。
その上、幼女の姿ではない自分本来の姿を褒められたのは久しぶりであり、少しだけ自分に自信が持てた気がした。
この時点で既に、オロチの評価は同じアダマンタイト級冒険者のセラブレイトよりも数段高い。
ありのままの自分を褒めてくれる美少年と、幼女の自分に欲情するロリコン……その両者を比較すればその評価も当然かもしれないが。
「ん? まぁいい。それで俺がわざわざここに来たのは、アンタに直接確かめたいことがあったからだ」
確かめたいこと……そう言われると色々と思い浮かぶことはあるが、そのどれもがわざわざ城に忍び込んでまで聞かなければならないとは思えなかった。
変に言質を取られても困る。故に――
「答えられることならば答えよう」
ドラウディロンはそう返した。
そしてそれを対して気にした様子も無く、オロチは続けて口を開く。
「ビーストマン討伐に大きく貢献した者に、この国の国王の座を譲るというのは本当か?」
「……本当だ。ただ、この国は名前の通り代々竜の血を引く者が治めてきた。だから……その……私とけ、結婚することになる」
予想外の質問……というよりも出来るだけ考えないようにしていた質問をされ、ドラウディロンの頬が少し赤くなった。
今は大人の姿であるとはいえ、彼女には恋愛経験どころか異性と手を握ったことさえ無い。
だからそういった話の耐性が無いのも頷ける。
例えそれが政略結婚に近いものであったとしても、どこか気恥ずかしいものがあるのだろう。
一方、その返答を聞いたオロチは満足そうに笑みを浮かべた。
「そうか、それは良かった。じゃあ今日の所はこれで帰るよ。じゃあな」
そう言ってオロチは急に踵を返し、ドラウディロンが引き止める暇もなく颯爽と窓から飛び出してしまった。
彼女にはまだ聞きたいことが山ほどあったのだが、あまりにも突然のことで咄嗟に動けなかった。
もっとも、もし仮に動けたとしても、一般人程度の身体能力しかない彼女では止めることなど不可能だったが。
「……まるで嵐のような少年だったな」
部屋に残されたドラウディロンは、ポツリとそんなことを呟いた。
突然現れて聞きたいことだけ聞いて去っていく。
女王である自分が良いように振り回されて終わってしまったが、不思議とそれに不快感は抱かなかった。
それよりも、久しぶりに宰相以外と素の自分で喋ったことで肩の疲れが取れた気さえする。
「フフフ。オロチ、か。ひょっとすると、お主がこの竜王国の国王になるのかもな」
オロチが飛び出していった窓を見つめ、本当にそうなれば良いのに、と少しだけ期待した。