「ん……あ、いつの間にか寝てたのか」
むくりと上体を起こし、長時間同じ姿勢で寝ていた所為で固まった身体をポキポキと鳴らしながら伸びをした。
眠そうな顔をゴシゴシと擦る姿は、普通の少年と何ら変わらない。
むしろ人畜無害そうで小動物のような雰囲気さえまとっている。
しかし、唯一その瞳だけは両刃の刃物みたく鋭いものだった。
もしも彼に睨みつけられれば、たとえ屈強な大男であっても震え上がってしまうことだろう。
朧の双眸はそれほどまでに冷たく、凶悪と言って良いほど鋭い瞳である。
そんな鋭い目付きで周囲をキョロキョロと見渡し、そして朧はため息をつく。
既に夕暮れ時であり、街は夕日のオレンジ色に染まっている。
その様子から軽く見積もって二時間くらいは眠っていただろうか。
こうも気持ちよく眠ることができたのは久しぶりだ。
春の心地よい風と気温が、思いのほか朧を深い睡眠へと誘ったのかもしれない。
「そろそろ帰らないと」
朧はそう呟き、もう少し休んでいきたいという気持ちを押し殺して立ち上がった。
この場所は一般人が立ち入り禁止となっている警戒区域と呼ばれる地帯であり、頻繁にネイバーが出現する危険地帯だ。
故に周囲を見る限りでは人の姿は一人も見当たらない。
命の危険があることを除けば、一人で静かに過ごしたい時にはこれ以上ないくらいに最適な場所なのである。
ただ、誰もいないが為に邪魔されることなく熟睡してしまったのは良し悪しだろう。
少なくとも今回に限っては眠るつもりはなかったので、悪い方に傾いている。
それにもうすぐ日が暮れてしまうため、これ以上ここで無駄な時間を潰す訳にはいかない。
しかし歩き始めた途端、ポケットに入っているスマートフォンに電話が掛かってきた。
一度立ち止まり、着信音が鳴っているスマホをポケットから取り出す。
そして画面に表示されている名前を見てハッとした。
そこには『小南 桐絵』という名前があり、そういえば彼女と防衛任務の後に約束していたと思い出したのだ。
彼女の性格上、ここで無視すれば後からが恐い。
気付かなかったことにするという選択肢を脳内で消し、すぐに画面の通話という表示をタップした。
「もしも――」
『ちょっと! アンタどこほっつき歩いてんのよ!? 今日はあたしの訓練に付き合ってくれるっていう約束でしょ!?』
通話が繋がると、朧の声を遮るようにそんな怒鳴り声が響いてきた。
寝起きの頭には些か大きすぎると言いたいところではあったが、今回は百パーセント自分に非があると思っているので素直に受け入れる。
「あぁ、わるい。寝過ごした」
『寝、過、ご、し、た? へ、へぇ……あたしとの約束をそんな理由ですっぽかしたんだ。ふぅーん」
たとえ今の彼女の顔を直接見なくとも、電話越しから聞こえてくる声だけで怒っていることは容易に察することができる。
それも今回は特に怒りの度合いが大きいようで、朧の直感が警鐘を鳴らしていた。
「すまん、すぐに帰るから許してくれ。どうせ今日はコッチに泊まっていく予定だったんだろ? なら今夜は小南の気が済むまで訓練に付き合うから、な?」
『……それと、今度ご飯奢ってくれるなら許してあげる』
「いいぞ。焼肉でも寿司でも何でも好きなものを奢る」
『なら、許す。それと……その、今日の夜ご飯はあたしが作るカレーだから……早く帰って来なさいよ?』
小南が作るカレーは絶品だ。
初めて口にした瞬間から、朧は彼女が作るカレーの虜になっている。
朧には嫌いな食べ物というものは無いが、好きな食べ物は何かと聞かれれば真っ先に小南が作るカレーと答えるだろう。
それはそうと、電話の向こう側から『これがリアルツンデレか……!』という驚愕を孕んだ声が聞こえてきた気がしたが、果たして『リアルツンデレ』とは一体何なのだろうか?
あとでボーダーの先輩である木崎か烏丸、もしくは自身のパートナーである林藤 ゆりにでも聞いてみよう。
「小南(の作ったカレー)が大好きだから急いで帰るよ」
『な、なななな何を言って――』
自分が発した言葉が盛大な勘違いを生んでいるとは夢にも思わず、通話を一方的に切り、朧は急ぎ足で自身の住居である玉狛支部へと向かい始める。
その時には既に、数時間前に心の中で燻っていた鬱屈した気持ちはすっかり消え失せていた。
◆◆◆
玉狛支部所属のA級隊員である小南 桐絵は今、鼻歌を交えながら上機嫌でカレーの鍋をかき混ぜていた。
「ふんふんふ~ん♪ ふふふんふ~ん♪」
ついさっきまでは心配と苛立ちが入り混じったようにソワソワしていたにもかかわらず、たった一本の電話でここまで機嫌が良くなるという人物も珍しい。
良く言えば素直であり、まったく取り繕わずに言えば単純な性格。
それが小南 桐枝という少女である。
そして、そんな彼女をニヤニヤしながら眺める二つの影があった。
「ゆりさんゆりさん、小南ってすっごく分かりやすいですよね」
「そうだね栞ちゃん、さっきまであんなに落ち着かない様子だったのに、今は見ているコッチまでニヤケちゃうよ」
彼女たちは玉狛支部所属の宇佐美 栞、そして林藤 ゆりというオペレーター組の二人だ。
オペレーター隊員としては非常に優秀な二人なのだが、いかんせん下世話な話には目がないのである。
そんな彼女たちが、身近で起こった面白そうな出来事を見逃す筈もなかった。
「小南は朧くんのことをどう思っているんですかね?」
「うーん、今はまだ可愛い弟くらいにしか思っていないんじゃないかな。だから今後に期待ってところかしら」
小南がカレーを煮込んでいる影でそんな会話をヒソヒソと行なっていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。
おそらく誰かが帰ってきたのだろう。
さっきの小南との通話を考えれば、朧が戻ってきた可能性が高い。
「小南ちゃん~、朧くんが帰って来たかもよ~」
ゆりがそう言うと、小南は再び落ち着きが無くなってソワソワし始める。
それを見た宇佐美とゆりの二人は、より一層品の無い笑みを深めたのだった。