朧が所属している玉狛支部というボーダーの基地は、ボーダーの中でもかなり特殊な立ち位置にある。
独自にトリガーの開発を行ったり、本部と対等に取引をすることもある異色の支部だ。
さらに他の支部が行っているような住民に対する窓口業務を行なっておらず、所属している隊員も格段に少ない。
だがしかし、その数少ない隊員は誰もが優れた実力を有している。
木崎隊は今はまだ結成されたばかりのチームだが、いずれはボーダー最強の部隊と呼ばれるだけの素質を秘めているし、オペレーターと戦闘員という二人で構成されている稀有なチームである六道隊もまた、ランク戦では優れた成績を収めている。
まさに少数精鋭を地で行く組織であった。
そしてこの玉狛支部は、本部の決定に否を突きつけられる唯一の支部でもある。
だからこそ、朧のような特殊な過去を持つ隊員でも受け入れることができたのだ。
彼自身にとっても本部所属ではなく、玉狛支部の所属になったことは大きなプラス要素となったのだろう。
そうでなければ、ここまで朧が人間らしい感情を持つことはなかったはずだ。
――六道 朧は本来ならば感情を排除された筈の人間なのだから。
◆◆◆
「やっと帰ってきたわね! まずは手を洗ってうがいもしてきなさい!」
朧が玉狛支部に帰宅すると、一息つくよりも早くにそんな言葉が飛んできた。
もちろんそう言い放ったのは小南である。
まるで小煩い母親のような物言いではあったが、朧はその言葉に安心感のようなものさえ感じていた。
「さっき洗面所で洗ってきたから大丈夫だ」
「そ、そう。ならいいわっ。おかえり、朧。もう少しでカレーができるから座っててもいいわよ」
「ああ、そうする」
朧は言われた通り、自分がいつも座っている椅子に腰かけた。
台所の方から漂ってくるスパイスの香りが無性に食欲を刺激し、急激に空腹感が襲ってくる。
「朧くんおかえりー。今日はどこで道草食ってたの?」
そう話しかけてきたのは、横の椅子に座っている宇佐美 栞というオペレーターの少女だ。
「警戒区域の河原で横になってたらいつのまにか寝てた」
「あらま。朧くんなら大丈夫だと思うけど、警戒区域内ではあまり油断しちゃ駄目だよ?」
「了解した。今度からは気をつける」
非常にやんわりとした注意を受けたが、あの場所は朧のお気に入りなので本当に気をつけるのかは怪しい所だろう。
栞もそう思ったのか、朧の生返事に対して苦笑気味だ。
ただ、彼の実力を知っている為にそれ以上は何も言わなかった。
「本当に気をつけるのよっ」
しかし、前の椅子に座る林藤 ユリからはそんな言葉と共にチョップを食らってしまった。
「……痛い」
「防衛任務の後に何も言わず居なくなったから、みんな心配したのよ? せめて連絡くらいはしなさい。わかった?」
「……わかった」
朧がそう言うと、ユリは『ならば良し』と朧の頭を撫でた。
彼女は朧のオペレーターでもあり、こうして朧を叱ったあとは必ず頭を撫でてくるのだ。
身体の内側がポカポカするので、この時間は嫌いじゃない。
もっとも、表情筋が死んでいると評されるほどの朧は、いつも通りの無表情ではあったが。
気づけばそこに栞も加わり、ユリと栞からの撫で回し大会になっていたが、カレーを運んできた小南の登場でそれは中断された。
「はい、お待ちどうさま。あたし特製チキンカレーが出来上がったわよ」
朧はその小南特製のチキンカレーをバクバクと食べ進め、およそ5人前ほどの量を容易く平らげてみせた。
普段から食事の量が多い朧だったが、小南が当番のときに作るカレーの場合、それがより顕著に表れる。
ただ、普段の食事量を知る玉狛支部の女性メンバーから、それだけの量を食べても一切太らない朧の体質は密かに妬まれていることを朧は知らない。
体重の増減に一喜一憂する女性からしてみれば、朧の体質ほど羨ましいものは無いのである。
それに朧が気づくことはおそらく無いだろうが。
「さぁ、やるわよ! 今度こそアンタに勝ち越してみせるんだから」
そして、夕食を食べ終わって早々にそんな言葉を小南が朧に言い放った。
後頭部から飛び出ているアホ毛がピコピコと忙しなく動き、それが彼女の興奮度合いを表しているようだった。
「相手は小南ひとりで良いのか? 小南ひとりだと、遠距離からの一方的な攻撃でほぼ完封できると思うぞ」
「うぐっ……た、たしかにそうだけど」
小南自身にも思う所があったのか、図星を突かれたようにそれまでの勢いが無くなった。
朧の攻撃範囲は中距離から近距離までと幅広く、さらにスナイパーとまではいかないが、それなりの距離であれば狙撃にも対応できる。
トリオン量も莫大であり、近距離で戦うアタッカーにとっては天敵のような戦闘スタイルなのだ。
そして小南は純粋なアタッカーであった。
特殊なトリガーを使用してはいるが、それは完全に近距離戦闘用のトリガーであり、朧との相性は最悪と言ってもいい。
現に小南はボーダーでも指折りの技量を持つA級隊員ではあるが、朧と小南の戦闘結果はほぼ朧の圧勝で終わっている。
一対一ではほとんど負け無しであり、さらに一方的な試合展開になることが多い。
最近になってようやくポツポツと朧から一本取ることができるようになってはきたが、勝ち越すという目標は遥かに高く分厚い壁であった。
とはいえ、ここまで張り切っている相手を一蹴するのは流石に気が引ける。
その相手が小南であれば尚更だ。
「……まぁ、俺もいい訓練になるから別に良いけどね」
朧がそう言うと、小南はニパっと明るい笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ! 今日のあたしは、これまでのあたしとは一味違うから!」
何か自分に対する秘策でもあるのだろうか?
いつも戦闘に関しては自信に溢れている小南だったが、今日はそれとは別に確固たるナニカがあるように感じる。
朧の直感がそう告げていた。
「フフッ、桐絵ちゃんったらここ最近はずっと朧くんに勝つために練習してたのよ? レイジくんや烏丸くんなんて、桐絵ちゃんにエンドレスで相手をさせられてたんだから」
「ちょ、ユリさん!? それは内緒にしてくれるって約束だったじゃないですか!」
「あら、そうだったかしら? ごめんなさいね。私てっきり秘密なのは〝アレ〟のことだと思っていたから」
「アレ?」
どこか含みを持たせたユリの言葉に、朧が聞き返す。
「そう、桐絵ちゃんったら可愛いのよ。なにせ――」
「わー! わー! わー!」
すると、何かを話そうとするユリの口を小南が慌てて押さえ、彼女の話を強引に中断させた。
こうして最年長であるユリに翻弄されている小南の姿は、この玉狛ではそれほど珍しいことではない。
むしろユリ以外のメンバーからもよく揶揄われているので、もはや見慣れた光景だった。
「そういえば栞も今日は泊まっていくのか?」
そんな騒がしい二人のコントをぼんやりと眺めながら、朧は隣に座る栞に声を掛けた。
「うん、そうだよ。小南に訓練室の調整を頼まれちゃってね。明日は学校も休みだから、アタシも泊まっていくことになったよ」
「そうか。そろそろレイジも帰って来るだろうし、今日は賑やかになりそうだな」
そう呟く朧は相変わらず感情の起伏に乏しい表情ではあったが、見る人が見れば明らかに笑顔を浮かべていた。