明川学園はエースである楊 舜臣の好投もあって、ここまで同区最強の存在である青道と互角の勝負を演じていた。
打者のデータを全て頭に叩き込み、状況に応じてコースや変化球を使い分けるそのピッチングは、打撃力に定評のある青道打線をも見事に抑えている。
青道にいくつかのヒットは許しているものの、決定的な場面で確実にバッターを抑えることが出来るそのマウンド度胸や、精密機械と呼ばれるほどの制球力は既に高校生のレベルを超えていた。
だが、攻撃の面では先発の丹波に対して未だに攻略の糸口すら掴めていない。
守備では楊のピッチングで互角の勝負に持ち込めていたが、その一方で攻撃となると未だ楊の放ったシングルヒットのみで、ホームベースまでの距離がとてつもなく遠かった。
元々、明川のチームとしての地力は青道に到底及ばない。
もちろん選手たちの必死のプレーによって善戦しているのは間違いなかったが、それでも調子が良い状態の丹波から点を奪うのはそう簡単なことではなかった。
(……この回も無得点か。そろそろ先制点が欲しいところだな)
エースである楊 舜臣は内心でそう思った。
明川には楊の代わりとなるピッチャーは居ない。
もっと正確に言えば、ピッチャーはいるのだが青道打線を1イニングでも抑えられる実力を持ったピッチャーは居なかった。
故に彼は試合終了のその時までマウンドを降りる訳にはいかないのだ。
そして、彼の不安要素はもう一つあった。
言わずもがな南雲 太陽の存在である。
青道を全国制覇に導いた一番の要因が南雲であることは誰の目から見ても明らかであり、あの男が投手としてこの試合に出て来れば、明川が点を取ることは難しい……否、不可能だ。
だからこそ早い段階で先制点を奪い、そのままの勢いで9回まで無失点で逃げ切る、それが明川が青道に勝てる唯一の道筋であると楊は理解していた。
南雲はこの大会中、まだ一度もマウンドに上がっていない。
それが怪我によるものなのかまでは分からないが、今日の試合でも先発の名前があの男の名前でなかった時はひどく安堵したものだ。
丹波という投手は確かに手強いが勝機がない訳ではない。
少なくともこのまま自分が青道打線を抑え続ければ負けは無いのだから。
──ドスンッッッ!!
しかし、そんな楊の思惑は簡単に崩されることになる。
「あ、あいつが出て来るのか……!?」
楊の視線の先には、最大の障害となるであろう男がブルペンで投球練習を始めている姿があった。
そこから放たれている異様な威圧感に、嫌な汗が吹き出してくる。
ここに来て一番の不安要素が顔を出した。
膠着状態となってしまった今、あの男が出張ってくれば試合の流れが一気に傾いてしまいかねない。
それだけの力を持った選手であることはもはや周知の事実だ。
現に今もただのプルペンでの投球練習にもかかわらず、既に観客の視線を一挙に集め、試合にすら出ずに彼は球場の空気を変えてしまった。
仲間たちの表情を見れば明らかに士気が下がっているのが分かる。
マウンドから相手チームのベンチを睨み付け、どうしてこのタイミングで、と苛立ちが面に出そうになるのを必死に堪える。
歓声と共に聞こえてくる強烈なミットの捕球音が、楊には悪魔の足音のように感じられた。
「し、舜臣……」
だが、仲間からの不安そうな声にハッとする。
自分が弱気になればそれがチーム全体に伝播してしまう。
まだ試合の途中で、しかも南雲 太陽はブルペンで投球練習しているだけなのだ。
必要以上に恐る必要はない。
と、楊は自分に言い聞かせながらマウンドに集まって来ていた仲間たちに笑みを向けた。
「大丈夫だ、みんな。まだ負けている訳じゃない。それに、もしも南雲が出て来たとしても俺が抑えれば負けはないんだ。俺たちは俺たちに出来る野球をしよう」
その言葉に、俯いていた仲間たちが少しずつ顔を上げ始める。
良くも悪くも明川の中心は楊 舜臣だ。
楊が右を向けばチームも右を向き、左を向けば左を向く。
彼が試合を諦めない限りチームも諦めることはない。
「そう、だな。舜臣の言う通りだ。あの青道にここまで対等な試合が出来ているんだから、もしかすると本当に勝てるかも……!」
「ああ、舜臣がいれば青道にだって勝てるさ!」
明川に漂っていたどんよりとした暗い空気は無事に霧散した。
持ち直した様子に楊も安堵する。
ただ、南雲が登板する可能性が出て来た以上、これで余計に失点は許されなくなってしまった。
勝ち越されたまま南雲が登板することになれば明川の負けが決まってしまう。
その事実が、エースの肩に重くのしかかる。
「さぁ、後ろは任せたぞ。この回もしっかり抑えて、次の俺たちの攻撃で先制点を奪おう」
「任せとけ、舜臣!」
楊は宣言通りこの回の青道の攻撃を無失点で切り抜けたのだが、いつもより余計な力が入ってしまい、スタミナを大きく削られた。
普段の楊では絶対にあり得ないミス。
それは間違いなく南雲の威圧によって引き起こされたものだ。
精密機械が狂い始めたのは、ここからだった。
「──まぁ、こんなもんか?」
そして、静かに闘志を燃やす男は着々と登板の準備を進めていたのだった。