『今大会では未だに投手としての出場が無かった南雲選手ですが、周囲の不安の声を搔き消すような完璧なピッチングを披露しています! 怪物、皇帝という呼び名に相応しいピッチングと言えるでしょう!』
鬼気迫る様子でバットを構える楊に対し、薄く笑みを浮かべ余裕の態度を見せる南雲。
対峙する両者の印象は正反対だった。
明川学園のベンチや彼らを応援する観客は必至の声援を楊に送っているが、会場は既に青道一色のムードへとすっかり様変わりしてしまっている。
それは、久しくマウンドへ上がっていなかった南雲の二者連続三振が効いているのだろう。
テンポ良くカウントを稼いでいく投手は誰が見ても応援しやすい。
全ての観客を味方に付けるピッチング、とまで言い切ることは出来ないが、南雲のピッチングにはそれに近いものがある。
一部では怪我による影響で投手として出られないのではないか、などという噂が広まっていただけに今回の登板は高校野球ファンにとって興奮そのものだった。
『しかし、次のバッターは好打者の楊選手です。この試合では2本のヒットを放っており、南雲選手でも簡単には抑えられないかもしれません』
チームの要とも言える楊はこの試合を一人で投げ抜いており、その疲労はピークに達していた。
だが、その身体から放つ圧力は衰えるどころか凄みを増している。
それこそ青道の結城に匹敵するレベルまで引き上げられていた。
体力の限界を越えたことで、チームを負けさせまいとする楊の鋼の精神が極限の集中力呼び起こしているのだ。
ただ、そんな楊を前にしても南雲は笑う。
並みのバッターならば心が折れてしまいそうになるほどの冷たい笑みで。
遥か高みから見下ろすように。
当人には全く自覚は無かったが、野球を楽しいと思えば思うほど、それが真剣勝負であればあるほど、その笑みが深く、冷たくなっていた。
「勝つのは俺たちだ」
「負けはしない。必ず後ろに繋げてみせる……!」
ランナーのいない今、どうあってもこの打席だけでは同点にすることは不可能である。
それでも楊が打たなければここで終わり。
自分が打った後のことはチームメイトに任せるしか無いが、勝利への可能性が僅かでも残っているのなら諦める訳にはいかない。
そして、楊への第一球。
それは目の覚めるようなストレートだった。
電光掲示板には160キロという数字が映し出されていたが、バッティングマシーンが投げる同じ球速の球とは歴然の差がある。
数字以上に厄介であるのは間違いなかった。
「……これが南雲 太陽の球か。正直、想像以上だ」
南雲が投げる球には打席に立った者しか分からない怖さがある。
おまけに、今の投球フォームは投げる瞬間までボールの手元が見えない投げ方になっていた。
それは沢村を参考にして編み出されたものだが、南雲の速球と組み合わさると凶悪さは比較にならないほど跳ね上がる。
本来のボールのノビと手元が見えないフォームが組み合わさり、気付いた時には既にミットへ収まっていた、なんてふざけたことが現実に起こってしまうのだ。
「このくらいで驚いてたら、あいつから点を奪うなんて夢のまた夢だぜ?」
「フッ、それでも俺は打ってみせるさ。絶対に」
「……ふーん、やっぱり南雲が気に入るだけはあるな」
全く動じた様子のない楊に、御幸はマスクの下で思わず感嘆の声がこぼれた。
南雲の全力投球を見たバッターは大きく分けて二つの反応を示す。
心を折られて戦意を喪失するか、逆に闘志を燃やして奮起するかだ。
この場合、楊は間違いなく後者だろう。
(ここは一球外して様子を見る……ってのが定石だが、今の南雲には逆効果だろうな。せっかくモチベーションが跳ね上がってるんだ。真っ向勝負させた方が良い方に転がるはず)
これが普通の投手ならば定石通りの配球を指示していただろうが、生憎と南雲は普通とはかけ離れた存在だ。
本人の意思を尊重することがチームにとって最良ならば迷う余地は無い。
捕手とは投手の能力を最大限に引き出し、相手バッターを抑えることが仕事なのだから。
そう考えながら御幸はスプリットのサインを出した。
既に魔球と呼べるほどの完成度を誇るこの変化球は、高速スライダーと並んで南雲の決め球の一つとなっている。
これを投げられればバッターはまず打てない。
打つ直前までほぼ直球と変わらない軌道で飛んでくるボールなど、初めからこの球だけに狙いを絞らない限りバットに当てることすら出来ないだろう。
南雲は小さく頷きモーションを開始する。
そして、手元で消えるようにストンと落ちる球に楊は反応出来ず、力強く振られたバットは何もない虚空を切り裂いた。
「チッ……!」
「──ははっ」
楊は変化球が来ることは読み当てていたものの、ボールの初速の速さに直球が頭によぎってしまい、バットに擦りすらしなかった。
いよいよ追い詰められてしまった楊。
たった一打席で南雲を攻略するなど初めから無謀だったのだ。
先制点を奪われてしまった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。
「この時間が永遠に続けば良いのにな。でもまぁ──」
第三球、浮き上がってくるような錯覚がするほどの直球が楊を襲った。
あり得ない軌道で向かって来るそのボールに、何とか食らいつくつもりでバットを振る。
──たった1イニングだったけど、楽しかったぜ?
ボールはミットへと突き刺さり、審判のゲームセットの合図が球場に響いた。
何が起こったのか理解出来ないまま呆然と立ち尽くすしかない楊。
彼はこの時、初めてボールが怖いと感じたのだった。