「――ぃ。……ぼーい。野球ぼーい、ソロソロ起キテクダサーイ」
「…………誰だ?」
目を覚ますと、俺の目の前には医者の格好をした怪しげな男がいた。
眼鏡を掛けている白髪の男で、歳は4、50代くらいだろうか。
距離を取るために突き飛ばそうとするが腕が動かない。
首だけを動かして自分の身体を見てみると、俺はガチガチにベッドに括り付けられていた。
自分が拘束されているというあまりにも異常な光景に、それまでのフワフワしていた意識が一気に覚醒する。
「お、おいっ、なんだこれ! 早く外せよ!」
「少シ落チ着イテクダサーイ。ワタシハ怪シイ者デハアリマセーン」
「うるせぇ! だったら早くこれ外せ!」
「……ワカリマシタ。拘束具ヲ外スノデ、大人シクシテクダサーイ。げどー君」
「ギョギョ」
っ!
今まで気付かなかったが、すぐ傍に紫色のバケモノみたいな奴がいる。
そいつを見て身体が強張って動けなくなったところを、『げどー君』と呼ばれたそのバケモノは、見た目に反して俊敏な動きで俺を拘束していたベルトを外してくれた。
……なんだ、俺を誘拐した割にはずいぶんあっさり外してくれたな。
てっきり俺の親に金を要求するつもりなのだと思っていたが、コイツらは金が目当てな訳じゃないのか?
「あんた、一体何者だ? あいにくだけど、俺の家は別に金持ちって訳じゃないぞ?」
「ワタシ達ハ身代金ガ目当テデハアリマセーン。野球ぼーい、ワタシ達ノ目的ハ慈善事業デース」
慈善事業とか本当に嘘くさい。
そもそも無理矢理こんな研究所みたいな場所に連れて来ておいて、慈善事業はないだろう。
って、あれ?
この男とは初対面の筈なのに、なんで俺が野球をやっているって知っているんだ?
「俺、野球をやっているなんて言ってない筈だけど……?」
「身体ノ筋肉ヲ見レバ、スグニワカリマース。中々良イ被験体……モトイ、良イ素質ヲ感ジマース。ナノデ、ぼーいノ身体デ実験サセテクダサーイ」
はい?
実験させてくれって、一体何を言い出すんだこの男は。
被験体とかいう不穏な単語も聞こえてきたし、怪しい以上に危険な雰囲気を感じてしまう。
とはいえ、このジジイは人ひとりを拉致するような頭のおかしい老人だ。
いざとなれば強引にでも逃げられるように心の準備をしておかないとまずいな。
「見ず知らずの不審者であるあなたに、自分の身体を委ねるわけないじゃないですか。話がそれだけなら俺はもう帰らせてもらいますよ」
この男の話は聞くだけ無駄そうだし、明日には大事な試合を控えている。
これ以上変なことに巻き込まれない内にさっさと帰らせてもらうとしよう。
しかし、ベッドから降りようとする俺に博士が待ったをかけた。
「野球ぼーい、君ハトテモ失礼デスネ。コウ見エテ、ワタシハ凄腕ノどくたーデース。コレマデモ、沢山ノすぽーつ選手達ヲ救ッテキマシタ。ワタシニカカレバ、君ヲ世界一ノぴっちゃーニスルコトダッテ、不可能デハアリマセーン」
「……なに? 俺を、世界一のピッチャーに?」
その言葉に思わずピクッと反応してしまう。
というか卑怯だ。
いまの俺の望みにドンピシャ過ぎて反射的に耳を傾けてしまった。
たとえこんな胡散臭い怪しさ満点の男が言ったことでも、世界一のピッチャーに成れるだなんて言われては縋ってしまいそうになる。
だって世界一のピッチャーになれれば、明日からの試合を勝ち抜くことだって出来るはずだから。
……一瞬、母親との約束の為に死に物狂いでバットを振っている相棒の姿が頭をよぎった。
だが、ギリギリのところで理性が俺の気持ちにブレーキをかける。
こんなうまい話に裏がない筈がない。
安易に乗れば、後々に手痛いしっぺ返しを食らう羽目になってしまうだろう。
「……それってヤバい薬とか、俗に言うドーピングってやつですか? 検査されたら一発アウトみたいな危険なやつですよね?」
「全然違イマース! ワタシノ手術ハ、レッキトシタ科学デース! どーぴんぐ検査ニモ、コノ国ノ法律ニモ、引ッカカル事ハ絶対ニアリマセーン」
「怪しすぎる……」
違法性を怒り混じりで否定する博士だったが、俺はその言葉を信用して鵜呑みにするほど馬鹿ではない。
それに、法律には引っかからないだけで完全に合法という訳でもない気がする。
手術の効果が事実なら、もっと広まっていてもおかしくないだろうからな。
ただそれでも、目の前に垂らされている餌があまりにも眩しすぎて、俺には博士の言っていることを戯言だと切って捨てることは簡単には出来なかった。
「博士がちゃんとした医者だっていう証拠は?」
「昔ノ事デスガ、ワタシハのーべる賞ヲ獲得シタコトガ有リマース。アレガソノ証拠デース」
そう言って壁際に飾ってあった金のメダルを指差した。
俺のにわか知識では断言することは出来ないが、確かにノーベル賞のメダルはあんなデザインだった気がする。
そもそも偽物という可能性もあるけど、それを言うなら俺みたいな無知なガキを騙す証拠なんていくらでも偽造できるだろう。
さて、どうするべきだ?
この男は本当に俺を騙そうとしているのか?
それとも或いは……。
「ワタシニ出来ル手術ハコチラデース。一度見テクダサーイ。ぼーい専用ノ特別めにゅーデース」
心が揺れている俺に、有無を言わさずパンフレットのような紙切れを押し付けてきた。
そこに書かれているのは……『身長を伸ばす』?
他には『体力を付ける』や『特殊能力を身に付ける』に、『自分の欠点を無くす』とかよく分からない事が書いてあった。
そして一番下には『野球を上手くする』と書かれている。
しかし、先ほど博士が言っていた世界一のピッチャー云々ってのはここには載っていなかった。
「あの……さっき言ってた、世界一のピッチャーになれるってのはどうなんですか?」
「……覚エテイマシタカ。シカシ、ソノ手術ハおすすめデキマセーン。成功率ガ低スギマース」
「どのくらい?」
「大体4ぱーせんと位デスネ。ソシテ、モシ手術ガ失敗スレバ、ぼーいハ二度ト野球ガ出来ナクナッテシマイマース」
「はっ、マジかよ……」
成功率は4パーセント、しかも失敗すれば野球が出来なくなってしまう、か。
あまりにも無謀すぎるな。
実質、そんな手術は不可能だって言っているようなもんだ。
これを受けるなんて馬鹿か頭がおかしな奴だけだろうね。
――ま、俺はその馬鹿で頭のおかしい奴なんだけどさ。
正直、俺の中では既に手術を受けるという方に傾いていた。
このまま俺の自力で優勝するのと比べると、4パーセントの方がはるかに可能性があるからだ。
生まれてこの方ケガや病気とは全くの無縁、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせ、この男を信じてみることにした。
自分でも冷静な判断が出来ていないという自覚はあったが、もう自分の意思では止めることは出来なかった。
「わかった、その手術を受けよう。悪魔に魂を売ってでも、俺は明日からの試合で勝ち続けたいんだ。必ず4パーセントの可能性を掴みとってやる」
博士がニヤリと笑う。
それまでの見せていた嘘臭い笑みではなく、どこか狂気を感じさせる科学者の顔だった。
ゾッとするような今すぐ逃げ出したくなる悪寒を感じたが、拳を握りしめて身体の震えを抑え込む。
「ワカリマシタ。デハ――げどー君」
「ギョギョ!」
「おいおい……そんなに荒っぽくしなくても今更逃げやしねぇよ」
再び『げどー君』と呼ばれた生物に拘束具を嵌められ、えらく強めな拘束が気になったが、抵抗はせずに大人しくそれを受け入れる。
そして、まるで調理を待つ魚のような気分で手術とやらを持っていた。
しかし次の瞬間、唐突に俺の全身に強烈な電撃が迸る。
「ぎゃああああああぁぁぁぁ!!!」
バタンッ。
視界がチカチカと明点したところで、俺の意識は何が起こったのかさえ分からずに闇へと沈んだ。
「……化学ノ進歩ニハ犠牲ハツキモノデース」
「ギョギョ……」