ありとあらゆる検査で医者に異常なしと診断された俺は、今日ついに運動することが許され、このたび目出度く退院して青道の寮へと戻る事になった。
俺を担当してくれていたお姉さんにはちゃんと挨拶して、惜しみながらも笑顔で見送ってもらえたよ。
ただ不思議なもので、入院している間は一日でも早く練習に参加したいと思っていたが、いざ退院するとなった今振り返ってみると、少しだけこれまでの生活が惜しくも思える。
「――でもまぁ、やっぱ俺の居場所はここだよな」
目の前に広がるのは見慣れたグラウンド。
聞こえてくるバットの金属音、野球部員の掛け声、グローブの捕球音……たった数日なのにそんな身近なものが懐かしく感じる。
ようやく学校に帰って来ることが出来たのだ。
嬉しくない筈もなく、自然と口角が上がってしまう。
「南雲君。久しぶりで嬉しいのはわかるけど、まずは荷物を部屋に置いて着替えて来なさい。グラウンドに行くのはそれからよ」
おっと、病院まで車で迎えに来てくれた高島先生に釘を刺されてしまった。
気付けばグラウンドを前にした俺の身体が、自然とそちらに吸い寄せられていっている。
それだけ俺は野球に飢えているらしい。
「すいません。身体が勝手に」
あのままだと無意識のままグラウンドまで一直線だったかもしれない。
流石は高島先生、ナイス判断だ。
いくら俺でも私服のまま突撃したいとは思えないからな。
先生には入院中もちょくちょく俺の様子を見に来てくれたりと、ここ最近はお世話になりっぱなしだったりする。
看護師のお姉さんと鉢合わせた時は何故か空気が凍り付いたけどね。
まぁとにかく、グラウンドで今まで通りのプレーをすることが、心配してくれた高島先生に対する恩返しになるんじゃないかなと思う。
そんな自分に都合の良い解釈をしていると、高島先生は少しだけ嬉しそうに苦笑した。
「はぁ。ホントに南雲君は南雲君ね。いっそ変わらなすぎて安心するわ」
「へへっ、それほどでもないです」
「褒めてないから」
高島先生はもう一度大きくため息を吐き、そしてそのあと俺の目をしっかりと見て口を開いた。
「片岡監督とクリス君が、怪我明けの貴方の為にリハビリメニューを考えてくれたわ。しばらくはそれをこなしてもらうわよ。ピッチングは二人から許可が出るまで禁止。良いわね?」
む、またピッチングが禁止か。
以前までやっていたスタミナ強化メニューに続いて、これじゃあまたしばらく投球練習が出来そうにないな。
数日ボールにも触れていなかったから、今日はかなり楽しみしてたのに。
まぁ、どうしても我慢できなくなったら隠れて御幸に受けてもらえば良いか。
「返事は?」
「……はーい」
「一応言っておくけど、隠れて御幸君に受けてもらうとすれば、問答無用で次の大会では使わないって監督が言っていたわよ」
「おーまいがー」
くっ、どうやら俺の考えは想定内だったらしく、ちゃんと対策されてしまっているようだ。
次の大会で使わないなんて言われたら、そんなのどうしようもないじゃんか……。
俺はもうすっかり元気だから大丈夫だって言いたいけど、これ以上心配かけるのも申し訳ないし、納得してくれるまでは言う通りにしておいた方が良いかな。
今の身体の状態をちゃんと見てくれれば、問題が無いのはすぐにわかってもらえるだろうし。
「わかりましたよ。でも、見ての通り俺はもう元気ですから。またすぐに試合でも活躍する予定だし、その時はちゃんと応援してくださいね?」
「フフッ。えぇ、楽しみにしているわ。また南雲君がマウンドに上がる日をね」
まずはリハビリがてら、クリス先輩と監督が用意してくれたっていう練習メニューをこなすとしますかね。
「それじゃあ俺は着替えて来ます。あ、送迎ありがとうございました」
「どういたしまして」
先生にお礼を言ったあと、俺は練習着に着替える為に急いで寮の自室へ向かう。
ピッチングが出来なくても今までベッドの上で生活していたから、身体を自由に動かせるってだけで気分が踊るんだ。
今ならマラソンだってスキップしながら出来そうなくらいのテンションである。
だから一分一秒でも惜しい。
早くグラウンドに行かなきゃな。
「あれ? この部屋ってこんな感じだったっけ?」
ガチャっとドアを勢いよく開けて部屋の中に入ると、そこは記憶にある部屋の内装よりも少し寂しいような感じがした。
うーん、微妙に違和感がある。
散らかっていた自分の机を勝手に整理されたような、ちょっとした変化。
まぁでも、気のせいか。
病院の個室に慣れすぎたからそう思うのかもしれな――。
「……あぁ、そうか。ここにあったクマさんの荷物が無いんだ」
ふと、違和感の正体に気付いた。
この部屋は俺とクリス先輩、そしてクマさんの三人で使っていた部屋だ。
だから一人分の荷物が無くなっていれば部屋の雰囲気もガラリと変わってしまう。
元々この部屋の先輩二人は几帳面な人達だったけれど、各々の私物には個性とかが見えていた。
それが無くなっているから寂しいと感じたようだ。
でも、そっか。
もう部屋を移動しちゃったのか。
三年生は受験とかがあるから大会が終わればすぐに別の部屋に移るとは聞いていたけど、にしてもこれは早すぎやしないかね。
もうくらい少しゆっくりしていれば良いのに。
「……また後でクマさんと話さないとな」
青道が負けた後、まだ三年生達とは一度も顔を合わせていない。
当然クマさんともだ。
あの人たちは今回の敗戦をどう考えているのだろうか。
そう考えると少しだけ、本当に少しだけ会うのが憂鬱になった。