今日は平日。
いつも通り授業を適当に流した俺は、合間の休み時間を使って『スポーツ科学の極意書』を読み進めていた。
「──ふぅ。これで全部、か。読むだけで鬼のように時間が掛かったな……」
そして、膨大な情報量を誇るこの極意書だが、たった今ようやく野球に関係する項目を全て読み終える事が出来た。
俺は一度読めば大抵のことを暗記できるからこの本を読むことはもうないだろう。
コツコツと空いた時間に少しずつ読み進めてきたからか、妙な達成感がある。
スポーツ科学と言うだけあって、野球だけではなくサッカーやバスケについても事細かに解説していたが、それらまで読もうとするにはあまりにも量が膨大だから早々に諦めたよ。
その代わり野球に関する知識は全て頭に叩き込んだから、これでいつでも好きな時に本の内容を実践する事が出来る。
ただ、それでも共通している部分が多いのか全体の三分の一くらいを読む事になったけどね。
「え……まさか広辞苑より分厚いその本を全部読んだの?」
と、俺の独り言を偶然聞いていた夏川が反応した。
「いんや、全部じゃないよ。読んだのは俺の役に立ちそうなページだけ。まぁ、大体これの三分の一くらいかな」
「いやいや、それでも十分多いから」
「何なら夏川も一度読んでみるか? 見ての通りデカいから持ち運ぶのは大変だけど、中身は結構おすすめだぞ?」
「どれどれ……うわぁ、やっぱり遠慮します」
差し出してみたが、夏川は適当に開いたページをパラパラとめくっただけで嫌そうな顔をして返してきた。
「諦めるの早くね?」
「だって見るからに内容が難しそうだもん。ざっと目を通したけど、これを読むには相当な理解力がいるんじゃない? きっと、これを書いた人は誰かに読ませようって気が無いと思うな」
そういえば確かに書かれている内容は難しかった気がする。
わざとなのか意図してなのかは不明だが、やたらめったら小難しい言葉を使っていたし、所々に英語とかドイツ語が混じっていたから翻訳しながら読む羽目になったっけ。
内容自体は画期的で面白いからそこまで気にならなかったけど、今にしても思えば読者に対して思いやりの欠片も無い本だったかもしれん。
「あ、ごめん。私ちょっと用事があるんだった」
「どっか行くのか?」
「藤原先輩のクラスまでね。先生から野球部のことで仕事をいくつか頼まれたから、早めに片付けちゃおうと思って」
「ほー、行ってらっしゃ……あ、待った。確か藤原先輩って2-Aだっけ?」
「うん、そうだよ。それがどうかした?」
「それなら俺も着いてくよ。この本をクリス先輩に貸してあげようと思ってさ。野球部でちゃんと理解できるの、俺以外だと多分あの人くらいしかいないだろうし」
御幸も理解できるとは思うけど、ただでさえオーバーワーク気味なのにこれ以上宿題を増やしても為にならない。
その点、クリス先輩なら上手くやる筈だ。
御幸には先輩が読んだ後にでも貸してやるとしよう。
当の本人はまだ昼飯から戻って来ていないしな。
「オッケー。じゃあ一緒に行こっか」
「お嬢、お伴しやす」
「ふふふ、苦しゅうないぞ」
そうと決まれば休み時間が終わる前にさっさと行ってくる必要がある。
一年と二年の教室って何気に離れているし。
脇に本を抱え、俺と夏川は二年生の教室へ向かって移動し始めた。
「えーっと、先輩たちのクラスは……どっちだっけ?」
「こっちだよ南雲くん。ほら、あそこの階段を降りてすぐ隣にあるのが2-Aの教室」
「あぁ、そうだったな。すっかり忘れてた」
俺の記憶力は意識しないと発揮されない。
だから、普段滅多に行かない場所とかは普通に忘れてしまうんだよね。
ウチの学校って無駄にデカい校舎だから尚更だ。
校舎を半分くらい潰して、そこを全部屋内練習場にすれば良いんじゃないかな、うん。
「どうしたの? 早く行かないと休み時間が終わっちゃうよ?」
「おう」
普段使うことのない階段を降り、俺と夏川は二年生の教室が並ぶ階へと向かう。
「あれ、今あそこの窓に変なものが映らなかった?」
すると、夏川が急にそんなことを言ってきた。
「ははは。流石に外がこんなに明るいから怖がらせようとしても効かないぜ? 元々そういう系に強い方だし、俺」
「ち、ちがうって。ホントに見た気がしたの。こう、紫色のなにか……」
紫色?
うーん、何故か紫と聞けば少しだけ嫌な感じがするな。
トラウマを呼び起こされるというか、とにかく変な感覚だ。
思い出そうとするとその記憶を封じ込めようとするかのようにズキッと頭が痛む。
「ギョギョ!」
「あ?」
不意に階段の上からそんな奇妙な声が聞こえてきたので反射的にそちらに視線を向けると、空中にバケツが浮かんでいる……というかこっちに向かって落ちて来ているのが見えた。
しかもそのバケツの中には大量の水が入っているのが見え、このままでは俺も夏川もそれを全身に受けることになってしまう。
なぜ? と、頭がそんな疑問を抱く前に俺の体は自然と動いていた。
未だに反応できていない夏川の体を抱くようにして横にサッと素早く回避する。
普段から野球で足腰が鍛えられているだけあって、女の子一人くらいなら簡単に抱きかかえることが出来たのは幸いだった。
「きゃっ」
「っと、大丈夫か?」
「う、うん。私は大丈夫。南雲君のおかげで助かったよ。ありがとう……って、あーっ!」
夏川は俺から離れてバケツの水が溢れて水浸しになっている床にしゃがみ込む。
「急に大声出してどうした?」
「こ、これ……」
彼女が指差す先にあるのはびしょ濡れになった分厚い本。
見覚えのあるそれは俺の手元にある筈の極意書だった。
どうやら咄嗟のことで俺も慌てていたようで、いつの間にか腕からこぼれ落ちてしまっていたみたいだ。
「あー、こりゃもう中身は読めねぇな」
しかも運の悪いことにバケツはちょうど本の上に落ちたらしく、大量の水を被っていて中の文字が読めないくらいに滲んでいた。