あと数十分で日付が変わってしまうであろう真夜中に、未だ明かりが点いている部屋があった。
東京某所にある月刊『野球王国』編集部。
そこでは二人の男女がパソコンと向かい合い、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。
「今月の分の記事はもう出来上がったか? 締切、確か明日までだった筈だが」
そう言ったのは記者の峰。
つい先ほどまでデスクワークをしていたので身体の凝りをほぐしながら部下である大和田に話しかけた。
「いえ、まだです!」
「……そんな自信満々に言うもんじゃないぞ、それは」
峰はため息を吐きながらもそこまで怒る気にはなれなかった。
なぜなら彼女が今担当している記事は、月刊『野球王国』として一番力を入れている南雲 太陽についての記事だからだ。
先日行われた秋季大会決勝戦で9イニングを一人で投げ抜き、被安打は僅か二本という脅威の完封勝利を納めた野球界の期待の星。
そんな彼についての記事は当然ながら手を抜くことは許されない。
それどころか、生半可な内容のものを提出すれば最終チェックをする編集長の怒りの檄が飛んでくるだろう。
本来ならベテランである自分が担当する筈だったのだが、他ならぬ本人からの希望でこの件は大和田の担当になった。
これまでの実績や南雲関連の取材の功績を考慮し、彼らの上司である編集長からもゴーサインが出ている。
そして、自分から志願しただけあって大和田の気合の入り方は相当なものだった。
「いやー、だって南雲君の場合は書くことが沢山ありすぎてまとめ難いんですよね。取り上げないといけない箇所が多いっていうのも困りものです」
大和田はどこか楽しそうにそう言った。
彼女の南雲に対する記者としての熱意は峰も認めている。
だからこそ任せても良いと判断したし、自分よりも良い記事を書けるのではないかと密かに思っていた。
ただ、その熱意を上手く形にするというのは非常に難しく、記者としてのセンスが問われる作業でもある。
簡単にいかないことはある意味想定内だった。
「そうか。だがちゃんと明日の朝までに間に合うのか? いくら良い記事を書いても、期日までに間に合わせられないのなら記者としては半人前だ。編集長から大目玉を食うぞ?」
「気合いで間に合わせてみせます! あ、先に上がっちゃって大丈夫ですよ。私はこのまま続けるので」
そんな大和田に峰は思わずため息をこぼす。
「……はぁ、その前に少し休憩しろ。もう何時間も机に張り付いて、飯も碌に食ってないだろ、お前」
「えー、でも──」
「でもじゃない。この時間ならギリギリ出前もやっているだろう。まずは飯だ。飯を食って、それから俺も手伝ってやる。いいな?」
「さっすが峰さん! ありがとうございます!」
手伝ってもらえると聞いて大和田は素直に喜んだ。
このまま徹夜で仕上げるつもりだったが、それなら帰宅して寝るくらいの時間はできるだろう。
「俺の分の出前も適当に頼んでおいてくれ。俺はその間、出来上がっている記事の確認をしておくから」
「はーい」
今の時点で書き上がっている記事を見てみると、やはりというか青道が勝利したという内容はオマケ程度で、内容の大部分は南雲に関する記事で覆い尽くされていた。
ある意味、ここまで注目されるのは災難でもある。
多感な高校生にとって世間からの評価や評判を気にしないというのは難しく、それによって調子を崩してしまうことも十分にあり得るのだから。
騒がれてしまうのは南雲にとっても良いことばかりでは無いのだ。
とはいえ、記者としては取り上げなければならないは辛いところだ。
若い大和田は未だ気付いていないが、いずれは同じ悩みを抱えることになるだろう。
(幸いなのは、今のところ南雲君本人がマスコミ関係を多少鬱陶しいと思っているだけで、大きなストレスには感じていないことだな。だから大和田も南雲君の記事を喜んで書いているんだろうし)
実際に南雲は記者からのインタビューにも卒なくこなせていた。
質問によっては笑顔を見せることもあり、記者たちからの評判もすこぶる良い。
高校野球界は既に南雲が中心となりつつあった。
センバツの結果次第では冗談ではなくそうなるだろう。
「南雲君は夏の大会後、大きく成長した。気になるのはこれからのオフでどれだけ成長するのかだ。まだ伸び代があれば良いんだがな」
「そうですねぇ。でも、彼の場合は今のままでも十分といえば十分ですよ? これまでの成績を見ても、上級生より凄い記録を残しているじゃないですか」
「甘いな」
大和田の楽観的な考えを峰は否定する。
「ここまでの彼はそれこそ信じられないスピードで進化して来た。だが、それが止まってしまえば本人はどう思う? まず間違いなく焦るだろう。ライバルたちが確実に力を付けてきている中、自分だけが変わらないとなれば無理な練習で身体を壊してもおかしくはない」
一年生からエースとしてチームを引っ張っていても、怪我をしてしまえば最悪二度とマウンドに上がれないこともある。
峰は実際にそういう選手を嫌という程見てきた。
大きな壁にぶつかってスランプに陥った結果、三年生になる頃には怪我でベンチにすら入れない、そんなことも十分にあり得る。
「彼は常に前へと進まなければならなくなってしまった」
普通ならそんなことにはならない。
だが、南雲自身がが普通の選手ではないのだ。
誰よりも多くの期待を背負い、誰よりも多くの敵から狙われている。
のしかかっている重圧は計り知れない。
「──だが、もしも南雲君がそれらを乗り越えて成長できれば、彼は日本史上最高の野球選手になるだろう」
峰はどこか確信するようにそう言い切った。