カツン、カツンと独特な足音を周囲に響かせ、柔らかな笑みを浮かべたその青年は全く緊張した様子を見せることなく歩みを進めていた。
その先に集まっているのは、いわゆる海軍将校と呼ばれる歴戦の猛者たちだ。
皆一様に強者の風格を纏った壮年の戦士たちで、そんな彼らと比べてはるかに若い青年はひどく場違いに見える。
「――ようやく来たか。待っちょったぞ、小僧」
将校たちの中心にいる男が獰猛な笑みを浮かべてそう言った。
赤子なら大声で泣き叫ぶくらい凶悪な顔をしている。
いや、大の大人であっても怯んでしまうような空気を、その男は全身に纏っていた。
「サカズキの叔父貴……いい加減俺のことを小僧なんて呼ぶのやめてくださいよ。俺のことをそんな風に呼ぶの、もう叔父貴だけですよ? せめてツバキと呼んで欲しいんですけどねェ」
「フンッ、ワシから見ればお前はいつまでも小僧じゃけぇのぉ。今さら変えられんわ」
海軍本部元帥――サカズキ。
彼は少し前まで大将の一人だったが、先代のセンゴクが元帥から退くことになったので、そのタイミングで元帥に昇格することになった人物である。
誰に対しても厳格な対応をするサカズキだが、今だけはまるでこの会話を楽しんでいるかのように笑みを浮かべていた。
そんなサカズキに小僧呼ばわりされた青年は頭をポリポリと掻き、この人は相変わらずだなと、昔を懐かしむように苦笑する。
「あれ? 叔父貴、その首にある傷は一体どうしたんですかい? 随分と男前になったようですけど」
首の傷を指摘すると、部屋の温度が少しだけ下がった気がした。
何人かの将校たちがサカズキの顔を伺うように覗き見たり、慌てたり、反対に面白い物を見るような視線を向けている者も中にはいる。
「……これはアホンダラをブチのめした時の傷じゃあ。流石に無傷で完勝できる相手ではなかったけぇの」
サカズキは苦々しい表情を一瞬見せ、傷のある部分を押さえながらコキコキと首を鳴らした。
「あぁ、そういえば噂になってましたね。大将同士で大喧嘩して、島一つを台無しにしちまったって。ははは、叔父貴も良い歳なんだから、荒事からはそろそろ引退した方が良いですよ?」
「小僧がぬかしよる。ワシは生涯現役じゃあ。まァ、お前がその分身を粉にして働くっちゅうんなら別だがな」
「やっぱ叔父貴はずっと働いてた方が良いね。昔から真面目で仕事人間だったし」
ははは、と余計なことを言ってしまったとばかりに青年は笑って誤魔化した。
そういう反応が返ってくると分かっていたサカズキも、それ以上は突っ込むことなく、ただほんの少しだけ期待していたのか軽くため息を吐いた。
「無駄話はここまでじゃ。とりあえず……おい」
「はっ!」
脇に控えていた海兵がワゴン引いて近付いてくる。
その上には白色のコートが丁重に畳まれて置いてあり、広げてみると背中に『正義』という文字が力強く書かれていた。
「着てみろ」
言われるがままに藤色の着物の上からそのコートを羽織ると、青年はどこか複雑そうな顔でサカズキに視線を向けた。
「まさか俺が海軍に入ることになるとはねェ。組織の一員とか、そういうのは得意じゃないんだけど……」
「安心せぇ。小僧は大将としての抜擢じゃけぇ、お前さんの上司はワシだけじゃあ。ある程度は無理も利かせられるじゃろう。よほどのことをせん限りは自由にやってもええ」
「それは有り難い。でも、それって思いっきりコネですけど大丈夫なんですかい?」
「問題ない。小僧が結果を出しゃあええだけじゃ。海賊共を片っ端から捕まえてこりゃ、外野の連中もすぐに黙る」
「……あんまり働きたくはないんだけどなァ」
しみじみとそう言っている姿は、とてもじゃないが海軍の大将として相応しいようには見えなかった。
良く言えば戦いとは無縁そうな好青年だが、悪く言えば貧弱そうな優男。
どうしてもそんな印象を抱いてしまう。
この場にいる他の将校たちも、何人かは彼の実力を疑っている者もいた。
そんな彼らの感情に気付いたのか、青年は苦笑しつつもガラリと雰囲気を変え、優しげな目元が鋭く変化する。
「でもまぁ、やるからにはそれなりに働きますよ。親父にも言われちゃったし、俺も覚悟を決めるとしよう。とりあえず――最近粋がっているらしい黒ひげとかいう外道を潰してこれば良いですかい?」
その瞬間ドッ、と空気が重くなった。
優男?
いや違う。
目の前に立っているのは獰猛な虎だ。
油断すれば一瞬で命を刈り取られてしまう、そんな予感がしてならなかった。
いくつもの戦場を潜り抜けてきた歴戦の猛者たちは、たった一人の若者の放つ覇気によって呑み込まれかけているのだ。
「――あの男はいずれ潰す。じゃけぇ、今は手ェ出すんじゃないぞ?」
そんな中でもサカズキは力強い言葉で釘を刺し、獰猛な虎を抑えつけようとする。
数秒の沈黙。
先にそれを破ったのは……虎の方だった。
「りょーかい。じゃあ適当に海賊を狩って待ってるよ」
この場を支配していた圧迫感が嘘のようにサッと消え失せた。
安堵しつつも大粒の汗をかく将校たちを尻目に、青年はにこやかな笑みへと戻って再びサカズキに対して笑いかける。
「ちゃんとお給料も貰えるんですよね? いくら叔父貴の頼みでも、俺、タダ働きでこき使われるなんて嫌ですよ?」
「大将は固定給プラス出来高払いじゃ。ただあまりにもサボっちょると、イッショウに報告させてもらうけぇ。気張って仕事せぇよ?」
「親父なら笑って許してくれそうですけどねェ」
「……とにかくじゃ。お前さんには大将の一人としての自覚を持ってもらわにゃいかん。その優男みたいな顔はどうにもならんじゃろうが、せめて口調くらいは威厳のある話し方に変えろ」
「そっか。うん、わかった。気をつけるよ叔父貴」
「……おんどりゃあ、何もわかっとらんじゃないか」
サカズキは相変わらずな態度に呆れつつも、子供の頃から見ていた人物が自分と同じ海軍に入隊することを内心では喜んでいた。
それに、この若者の実力はよく知っている。
今の大海賊時代と呼ばれる荒れた世の中で、彼の力は間違いなく海軍の切り札となっていくだろう。
――それこそ、呼び寄せたサカズキでさえ御することが出来なくなるかもしれないほどに。
「今日からは大将『藤虎』を名乗れ。ションベン小僧には勿体ないくらいええ名前じゃろう?」
「藤虎か……うん、気に入った。叔父貴が考えたとは思えないくらい良い名前だ」
ピキッと、サカズキの額に血管が浮き出てくるが、それを見てもなお青年――否、大将『藤虎』ことツバキは穏やかな笑みを浮かべていたのだった。