ブラック家の復讐者8

 イギリス国内にあるこじんまりとした薄暗い事務所。
 まだ日が落ちてからそれほど時間が経過していないので、外からは人々の喧騒が聞こえてくる。
 だが、そんな喧騒とはまるで別世界にいるかのように、この部屋の中は静かな場所だった。

 そしてそんな薄暗い部屋に人影がひとつ。
 不健康そうな瘦せぎすの男で、目の下にはっきりと浮き出ている隈が不清潔感を引き立てている。
 それさえ無ければ整えられている身嗜みも相まって、仕事の出来るビジネスマンに見えたことだろう。

 その男は書類の束を一枚ずつ、ただひたすらに目を通していた。
 この部屋には彼がパラパラと紙をめくる音、そして遠くの方から微かに聞こえる人の喧騒のみが響いている。

 この痩せぎすの男の名前はジャスパー・ライネル。
 かつてオリオンに命を救われた事をきっかけに、その瞬間からオリオンへ尽くす事を人生の全てとしている狂人である。

 するとそんな彼の頬を一陣の風が撫でた。
 部屋の窓や扉は完全に閉め切られているので風が吹き抜けることはあり得ない。
 ジャスパーは手に持った書類を机に置き、ニヤリと笑みを浮かべた。

「オリオン様、ここにいらっしゃるのでしょう? どうかこの私に、貴方様のご尊顔を拝見させて頂けないでしょうか?」

 ジャスパーはなにも存在しない虚空に話しかける。それもかなりへりくだった喋り方で。
 もしもこの場に誰か他の者がいれば、彼のことを気が狂った変人として認識すること間違いなしだ。

 しかし、今この部屋には確実にあのお方がいる……そういう確固たる自信がジャスパーにはあった。
 理由を聞かれても答えることはできないが、彼からすればオリオンの存在を察知できない方がおかしいとさえ思っている。

 そしてジャスパーが見つめる先の空間が歪み、そこから彼の予想通りの人物が現れた。

「……何故分かるんだ? お前には魔法使いとしての才能は微塵もない筈なんだけど」

 オリオンは少しだけ不満顔を浮かべてそう尋ねる。

「私がオリオン様に気づかないことなどあり得ません。なにせオリオン様は神にも等しい存在なのですから」

「うん、相変わらずぶっ飛んでるね」

 質問の答えにはなっていない返答だったが、オリオンは気を悪くするどころか微笑みを返した。
 一見ふざけているようにも取れる言い方でも、ジャスパーからすれば全て本心である。
 彼は本気でオリオンを神に近い存在として崇拝しており、自分の全て……それこそ命でさえ捧げて良いと思っていた。

 そしてオリオンを見るジャスパーの瞳には、いっそ狂気さえ感じる。
 おそらくクリーチャーはこの狂信者のような瞳が苦手なのだろう。

(俺もジャスパーが有能な奴じゃなかったら、たぶん関わりたいとも思わなかったかもしれない)

 いくら自分を慕っていると言っても、ジャスパーのそれは崇拝と同じものなのだ。
 そんな者をあまり好き好んで側に置きたいとは普通思わない。

 しかし、オリオンからすればジャスパーの性格はまだ許容範囲内だった。
 そして何より常人とはかけ離れた感性をしているからか、彼は非常に優秀な男である。
 そんな人物をわざわざ自分から手放すほどオリオンは愚かではない。

 ジャスパーが自分に尽くしているのであれば、それを受け入れるだけの器の大きさをオリオンは持っているのだ。

「あれからどうだい? かなり無茶な試験を与えたつもりだけど、今はどの程度達成しているんだ?」

「『二年以内に資産を10倍にする』、この使命を与えられてから今日で一年と十日。その結果がこちらの書類に記載されています。お納めください」

 そう言ってジャスパーは、先ほどまで自分が念入りにチェックしていた書類の束をオリオンへ渡す。
 受け取った書類をパラパラとめくっていき、次第にオリオンの顔が驚愕に染まっていった。

「……ジャスパー、君はいったいどんな魔法を使ったんだ?」

 呟かれるそんな言葉。
 オリオンはどこか信じられない面持ちで、手元にある紙とジャスパーの顔を交互に見る。
 だが、口元には隠し切れない笑みが見え隠れしていた。

「貴方様も知っての通り、私には魔法のような神の御業は扱えません。しかし、金の流れを読む力にはそこそこ自信があります。あれほどの元手があれば失敗する方が難しいですよ。……まぁ、些か張り切りすぎてしまったので、市場を読み切れなかった企業がいくつか倒産する事になりましたがね」

 クックック……と不気味な笑いをするジャスパー。
 彼の言った通りイギリス国内にある複数の企業が次々と倒産しているのだが、その件にはどれもジャスパーが関係していた。

 一個人の資産程度では市場に影響を及ぼすことなど本来は不可能だ。
 しかし、魔法界の王族と呼ばれるブラック家の資産であれば決して不可能ではない。
 そしてそれを扱うのは、性格には難があっても能力はピカイチのジャスパーだ。
 彼からすれば、ブラック家の莫大な資産を運用出来るのなら、そこからいくらでも資産を増やすことが可能であった。

「フフフ、正直想像以上だよジャスパー。まさかたった一年で俺の課した試験をクリアするなんてね」

 オリオンは手元の書類に目を落としながらそう言った。
 そこに書かれているのは、間違いなくブラック家の資産が10倍になっていることを示している。
 ジャスパーに試験としてブラック家の資産運用を任せて一年と少し。
 本来の二年という期間を大幅に縮めるその結果に、不満などあろう筈がなかった。

 そもそもこの試験自体初めから達成出来ないと思っており、ジャスパーがどれだけの能力を持っているかの確認という意味合いが強かったのだ。
 しかし、そんなオリオンの思惑を吹き飛ばすような結果を彼は叩き出した。
 もはや凄まじいとしか言いようがない。

「ありがとうございます、オリオン様。ではお約束通り、この私を貴方様の配下に加えていただけますでしょうか?」

「ああもちろん。文句無しの合格だよ。むしろこっちからお願いしたいくらいだ」

 オリオンがそう告げると、ジャスパーは相好を崩した。

「では、ではようやく私はオリオン様の僕として働くことができるのですね……! あぁ、これほどの幸福を感じたのは貴方様に命を救われて以来ですよ。私はきっとオリオン様に仕える為にこの世に生を受けたに違いない……! このジャスパー・ライネル、オリオン・ブラック様に永遠の忠誠を誓います!」

 片膝をついて自分に祈りを捧げているジャスパーに、オリオンは配下に引き入れた事を少しだけ後悔した。
 彼の瞳にはもはや狂気しか宿っておらず、そして自分に向かって神のように祈り続けているのだ。
 オリオンがそう思っても仕方ないだろう。
 もしもジャスパーが今の精神状態のまま外を出歩けば、市民に即通報されること間違いなしである。

 ただ、このままではまともに会話すら出来ないので、魔法を使って強制的に落ち着かせることにした。

「――アニムス」

 とは言え、これはあまり使った事がない魔法なので、ジャスパーの安全の為にも呪文を唱えて発動させた。
 オリオンが唱えた魔法は精神を安定させる魔法だ。
 本来は恐慌状態に陥った者に使う魔法なのだが、ジャスパーの状態はほとんど同じようなものだったので、きちんと効果が出た。

「おっと、私とした事が少し取り乱してしまいました」

「それじゃあジャスパー、俺の部下の証として君にこれを上げるよ。出来るだけ身につけて置くように」

 オロチは何処からか取り出したブレスレットをジャスパーに差し出す。
 すると彼は途端に真面目な顔付きになり、そのブレスレットを恭しく受け取った。

「あぁ、何ということだ……! オリオン様から贈り物を頂けるなんて、私は間違いなく英国一の幸せ者でしょう……!」

 そんな言葉と共に。

 

   

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