部屋の中に積まれていた書類の山が片付いたのは、初めてたしぎと対面してから数日後のこと。
それまでに宿舎と執務室を行ったり来たりするといった生活を送っており、それから解放された時の達成感は、ツバキが今まで経験したどんな苦難を乗り越えた時よりも上だった。
(たしぎ少尉が手伝ってくれなかったら、もっと時間が掛かっていただろうなァ。彼女にはもう足を向けて寝られねぇや)
手伝いを申し出てくれた部下であるたしぎ少尉は、自身の仕事や訓練の合間を縫って、わざわざ上官であるツバキの仕事に手を貸してくれたのだ。
彼女には感謝してもしきれない。
とんでもない量の仕事を就任早々押し付けて来たサカズキに怒りを募らせると同時に、たしぎへの感謝の念が日に日に増えていくのはある意味当然であった。
何はともあれ、無事に海兵としての初めての任務はこれで完了となる。
仕事の完了をサカズキへと伝える為、ツバキは現在、元帥が待つ最上階の部屋へと向かっていた。
「叔父貴、俺だ。入っても良いかい?」
「おう。入れ」
相変わらずの渋い声。
たったこれだけで言葉ひとつの重みが比較にならないほど増すのだから羨ましい。
いずれ自分も歳を取れば、こんな渋い声になれるものかと何時も思う。
「おはようさん。元帥殿は忙しいだろうから、先にこいつを渡しておくよ」
ツバキは手に持っていた紙の束をサカズキに差し出した。
これはツバキに与えられた仕事の一部であり、ついさっき仕上げた最後の書類である。
「これは……小僧、お前は本当にあれを全部片付けたんか?」
「ん、終わらせたよ。途中で投げ出すのも性に合わないし。まァ、たしぎ少尉に手伝ってもらったから終わらせたんだけど。他の大将さんたちは凄いねェ。あれだけの仕事を一人でこなしているんだから」
あの山のような紙の束を思い出し、ツバキはげんなりした表情を浮かべた。
今回はたしぎに手伝ってもらって何とか終わらせることが出来たが、次からはのことを思うとあまりの憂鬱さでため息がこぼれてしまう。
彼女は善意で手伝ってくれたので、毎回それに付き合わせるわけにもいかない。
だから自分ひとりで出来るよう、日々精進していかねばなと密かに気合を入れ直した。
しかし、サカズキから発せられた次の一言で、ツバキの表情が凍り付くことになる。
「小僧に渡したのは、大将としての半年分の仕事じゃけぇ。まさかこんなに早く終わらせてくるとは思わんかったぞ」
「…………は?」
飛び出したその言葉に目を丸くした。
自分の聞き間違いだともう一度聞き直すも、返って来るのは変わらずに『半年分の仕事』だというものだった。
あれが半年分の仕事。
つまり、あの地獄のような数日間は全く必要の無い苦行であり、自分がやっていたことは本来もっと時間をかけてする内容だったと。
そんなふざけたことを言われれば当然怒りも湧いてくる。
ここ数日間の頑張りは一体何だったのかと、小一時間ほど怒鳴り散らしたいほど。
「叔父貴ィ……アンタあれを終わらせるまで他の仕事はさせないって言ったよなァ? それはどういうことですかい?」
普段は温厚なツバキが額に青筋を浮かべてそう言った。
一見怒らなそうにも見えるツバキだが、一度キレれば手が付けられないほど気性の激しい人物である。
そもそも部屋の中に缶詰め状態でひたすら仕事をこなしていたのは、これくらいすぐに終わらせろと言われたからだ。
今回ばかりは彼が怒るのも無理はない。
「そうした方が気張って仕事すると思っとったんじゃ。実際、早く終わっただろう? ……ま、流石にこれに関してはすまんかったと思うちょる。許せ」
今にも飛び掛かりそうだったが、最後の一言を聞いて何とかグッと堪えた。
サカズキとは長い付き合いで自身が子供の頃から知っているが、謝罪を口にするなど数えるほどしかなかった。
今回のことは多少なりとも悪いとは思っているのだろう。
だからついつい、一度くらいなら許してもいいかと考えてしまう。
幼い頃から染み付いている関係はそう簡単には変えられないのかもしれない。
「はぁ、まァいいや。次からはもっとゆっくりやるから。念の為に言っておくけど、俺は他の大将と同じくらいしか処理しないからそのつもりでいてくださいね?」
「……わかっちょる」
サカズキは舌打ちでもしそうな顔でそう言った。
ツバキが釘を刺さねばしれっと増やそうとしていたのか、本当に反省しているのか怪しいものである。
もう少しくらい責めておけば良かったかと後悔した。
「昔の叔父貴は俺に優しかったのになァ。今ではすっかり変わっちまったみてぇだ」
「だから悪かった言うとろうが。そんな顔するな」
「ならここは一つ、久しぶりに手合わせでもしてみないですか?」
この件を水に流す代わりに、ちょっとした遊びに付き合ってもらうことを思いついた。
「手合わせじゃと?」
「そそ。叔父貴も机に噛り付いてばかりじゃ身体が鈍っちゃうでしょ。だから俺がそれを解決してあげようと思ってさ」
ニヤリと、ツバキは挑発的な笑みを浮かべた。
当然、ツバキが言ったのは言葉通りの意味だけではない。
これを機会にかつては遠く及ばなかった自分の力が、今どの程度サカズキに追い付いているのか確かめたいのだ。
もちろん今回の不満をぶつけるという意味もある。
ただ、それよりも今は純粋に戦ってみたいという気持ちの方が強かった。
若き虎は獰猛な牙を見せる。
「それに――叔父貴も俺がどれだけ強くなったか、その目で確かめたくはないですかい?」