藤色の着物の上から海軍のコートを羽織っている男──ツバキは獲物であるシーザー見つけると獰猛な笑みを浮かべた。
溢れ出る殺気と覇気が混ざり合って濃厚な死を漂わせており、それを受けたシーザーまるで抜き身の刃物を首筋に添えられているような感覚に襲われる。
「どうも、はじめまして。アンタがシーザー・クラウンかい?」
「お、お前……!」
ツバキから放たれる圧力に押され、シーザーは思わず二、三歩後ずさってしまった。
彼は目を合わせただけで理解させられてしまったのだ。
鼠が虎には勝てないように、自分がこの男に勝つことは絶対に不可能なのだと。
恐怖で身体が硬直してしまい、シーザーの額から冷や汗がダラダラと流れ落ちる。
「こっちが質問してんだ。さっさと答えてくれないかなァ?」
「くっ……ヴェルゴ! こっちはまだシノクニの準備が終わってねェ! お前は死んでもコイツの足止めをしやがれ!」
シーザーを突き動かしたのは死への恐怖だった。
降伏しても殺される予感がして、人一倍強い生への執着が身体の硬直を解いたのである。
あくまでも他力本願なのは誰を犠牲にしてでも自分だけは生き残るという気持ちの表れだろう。
「……無茶を言う。だが、こうなっては仕方ない。少しの間、俺の相手をしてもらうぞ──藤虎」
そう言って男、ヴェルゴは着ていた上着を脱ぎ去り、代わりに身体全体に武装色の覇気を纏わせて全身を黒く染め上げた。
こうして肉体に覇気を纏ってしまえば、生半可な攻撃ではかすり傷さえ付けることが出来なくなってしまうだろう。
さらに彼の鍛え抜かれた肉体を見てわかる通り、体術も相当なものであり、戦闘力は非常に高い。
並みの海賊や海兵では逆立ちしても勝ち目はないだろう。
「おや? 君は……どこか見た顔だ。俺の記憶が確かなら君はこちら側の人間だった筈だけど、これは一体どういうことだい。まさか海軍を裏切るつもりか?」
シーザーの前に立ちふさがった男の顔には見覚えがあった。
ツバキの記憶が間違っていなければ彼は海兵、それも階級は中将で新世界にある支部の支部長まで努めている男だ。
直接話したことはなかったが、そんな人物が障害として立ちふさがったことに苛立ちを感じるツバキ。
「俺は元々こちら側でね。元の鞘に戻ったというのが正しい」
「──そうかい。なら、君も一緒に捕縛するとしよう。サカズキの叔父貴への手土産が増えた。あんまり嬉しくはないけど」
中将という高い地位に就いている者がいきなり敵として現れたのは確かに予想外ではある。
だが、それだけだ。
たとえヴェルゴが海軍の中で屈指の武装色の使い手だとしても、今回ばかりは相手が悪いと言わざるを得ない。
「一つだけ君にアドバイスをしてやろう。わざわざ全身に武装色を纏うなんて無駄が多すぎるし、それは自分の未熟さを相手に伝えているようなものだ。見ていて滑稽だからやめた方が良いよ。もっとも──」
「ッッ!?」
次の瞬間、刀を納刀する音だけが静かに響き、少しの間を置いてヴェルゴの四肢から血が噴き出した。
正確に言えば血が吹き出ているのは腕の筋、脚の腱の部分だ。
合計で4箇所を正確に斬られ、立っていることすら出来ずにヴェルゴは崩れ落ちる。
「次があれば、だけどねェ」
「ぐがぁッ……!?」
自分の身に何が起こったのか分からず、地面に這い蹲るヴェルゴ。
もはやこの状態の彼に出来ることは何も無く、武装色の覇気も制御を失って肌が黒から元の色に戻っていた。
覇気とは自分の力を信じることで強くなるが、反対に信じられなくなれば弱まり、中には二度と使えなくなってしまう事だってある。
自信を持っていた武装色の覇気がこうも容易く破られたとあっては、ヴェルゴが二度と覇気を使えなくなっている可能性も十分にあった。
「安心していい。少なくとも今は殺しはしないから。裏切り者の処分は叔父貴に任せるさ」
「一体、何を……まさかあの一瞬で斬った、のか?」
「もう喋る必要はない。少し眠ってろ」
「うッ……!」
横たわるヴェルゴに追い打ちをかけ、ツバキは杖の先で殴り意識を刈り取った。
無造作に殴りつけただけだったが、既に満身創痍で死に体の状態では回避することも出来ない。
「さて、残るはお前さんだけだ」
「ひぃぃぃ!?」
「アンタは人として越えちゃならねェラインを越えた。今すぐにでも地獄へ叩き落としてェんだが……どうだい。お前さんが大人しく言うことを聞けるのなら生かしてやっても良いぞ」
「ほ、本当か!? 聞く、聞きます! 何でも言う通りにするから命だけはお助けを~!」
地に頭を擦り付けて許しを請うシーザー。
こんな男の所為で人生を壊されそうになっている子供がいると思えば怒りが込み上げてくる。
ツバキにとってこの男を殺すことは非常に簡単だ。
武器を使う必要すらない。
力を込めた拳で頭を一発殴れば、それだけでこの外道の頭はトマトのように簡単に破裂するだろう。
だが、理性で殺意を押し込める。
ここで殺せば自分の気は多少晴れるかもしれないが、子供たちの治療を考えればシーザーを今ここで殺すのは悪手でしかない。
やるとすれば全てが片付いたあと。
自身をそう納得させ、血が出るほど握りしめていた手の力を抜いた。
しかし、それを待っていたかのようにシーザーの口元が邪悪に歪んだ。
「──死ぬのはテメェだ、藤虎ァ!」
突然ブザーが鳴り響き、部屋の至る所から毒々しい紫色をしたガスが噴き出してきたのだった。